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覚の章31
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「詠……それから女狐。そこを通さぬか」
詠と白百合が鈴懸と別れてからまもなくして、玉桂がやってきた。玉桂は怒り心頭といった様子で、酷く殺気立っていた。足止めをしようと思っていた詠と白百合も、その姿には思わず恐怖を覚えてしまうほど。
「あの忌々しい竜神を殺さねばいけないのだ。退け。さもなくばおまえたちも殺すぞ」
「だっ……だめです……! 織さまを渡すわけにはいきません……!」
それでも、詠は逃げようとはしなかった。織を護る、その確固たる意志が詠の背中を押していた。
しかし、今の玉桂は口で言って止まるような、そんな冷静さは持ち合わせていない。止めるなら、力付くで。高位の妖怪である玉桂を足止めするのは容易ではないため、正直なところ詠の中には不安が渦巻いていた。
どうやって止めるか……迷う詠の前に、白百合が躍り出る。
「詠、そなたは下がっていろ。そなたは今、何一つ退魔の道具を持っていないだろう。足手まといだ、下がれ」
「えっ……でも、……! 白百合さま……」
白百合の言葉は、的を射ていた。
月の世界にさらわれた際、詠は式神を召還したり結界を張ったりするための道具をすべて下界に置いてきてしまったのだ。そのため、陰陽術を使うことができない。
しかし、だからといって白百合に力を使わせてはいけない。白百合はこれ以上力を使うと、魂が澱んでしまうから。
「白百合さま、だめです! 力を使ってはいけません……!」
「……足止めする程度だ。妾たちの身を守れる最小限の力を使えばよい」
「……でも、」
白百合が玉桂を見据える。
明らかに、格の違う相手。倒すことはおそらく不可能。しかし手を抜いては、身を守ることすらもできないだろう。
白百合は不安げに自分を見つめてくる詠をちらりと見て、ためいきをつく。
堕ちるつもりはない。堕ちれば、詠が悲しんでしまう。しかし……それで、詠を護りきることはできるだろうか。
「従わぬなら――死ぬがよい!」
「……っ」
迷っているうちに、玉桂が仕掛けてきた。
玉桂の目が赤く光り――そして、空気が震える。その瞬間、室内であるというのに、桜吹雪が現れた。異常な量の桜の花びらが室内に舞い上がり、呆気にとられている白百合と詠に襲いかかってくる。
「なっ……なんだこれは」
おそらく、桜の花びらは玉桂の妖力が可視化されたもの。つまりは、桜の花びら一枚一枚が、妖力の固まりだ。
触れてはいけないと白百合は結界を張ったが……その結界は、あっさり花びらに破壊されてしまう。すさまじい量の桜吹雪が全身を襲ってきて、呼吸がままならない。
「詠……しゃがめ! とりあえずしゃがめ!」
「えっ……、あっ、白百合さま……」
桜吹雪を浴びているうちに、この花びらは生命体の生気を吸い取るものであると白百合は気付いた。少しずつ、少しずつ、頭の中がぼんやりとしてくる。
白百合は詠が少しでも花びらに触れないようにと、しゃがんだ彼女を庇うようにして覆い被さった。
「ま、待って白百合さま……」
詠はぎょっとして、自分をかばう白百合の身を案じた。自分を抱きしめる、彼女の体が熱い。ちらりと顔をあげれば、白百合の頬に汗が伝っている。
「……、」
……このままでは、白百合は自分を庇って死んでしまう。
白百合は、力を使えない。もしもこの状況を打破したいのなら……動くべきは、自分。じゃあ、どうすればいい――?
悩んで、詠は――
「……詠、?」
ゆらり、と立ち上がった詠に、白百合は息を呑む。立ち上がっては、まともに花びらをを受けてしまう。しかし――もう、白百合には立ち上がる気力もなく。
その、凛とした瞳で玉桂を睨む詠の顔を、下から見上げることしかできなかった。
「――なんのつもりだ、詠? 私の力をまともに浴びては、人間のおまえはすぐに死んでしまうぞ? 哀れにそこの女狐と庇い合いでもして一緒に死ぬつもりか?」
「……貴方は、知っているでしょう? 私が、なんて呼ばれて蔑まれていたのか」
「はあ?」
詠が、着物の襟をぐっと開き、胸元をさらけ出す。目を瞠る玉桂。詠みは自らの肌が彼の目前に晒されることも躊躇わず、その瞳を静かに閉じる。そして、自らの指の腹を噛みちぎると、あふれ
出てきたその血で胸元に五芒星のようなものを描き出した。
――それを見た白百合は、「無謀だ」と言いそうになった。
おそらく詠の行おうとしているのは、新たに妖怪を呼び出し使役する、召還の儀式。しかし、自らの体を媒介にした即席の召還の儀式で呼べる妖怪など、たいしたものではない。せいぜい先祖の霊や守護霊といった、自らの魂に起因する霊体だ。そんなもので、この桜吹雪を防ぐことなどできないだろう。
しかし――詠の表情に、諦めなどはなかった。
「私は“鬼の子”。気味が悪いと疎まれて、虐げられて――本当に、心に鬼を飼ってしまった鬼の子です」
「……おまえ、何を呼び出そうとしている」
「でも、私はその鬼すらも、支配してみせる。白百合さまの想いに、応えてみせます」
赤く、五芒星が光る。詠の周囲に赤く輝く光の輪が現れて、そして――新たな詠の式神が、姿を現す。
「――“貴方”は私の心、私の闇。私の声を聞きなさい、私の命に従いなさい――私と契を結べ、“覚”!」
詠の声に応えるように吠えたのは――覚。詠の心を喰らった、あの覚であった。
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