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千歳の章10

*** 「有栖川さんのご趣味はなんですか?」 「私のことはどうぞ(こよみ)とお呼びくださいな。ふふ、私の趣味ですか? 英文学です。織さま、シェイクスピアはご存知?」 「シェイクスピアですか、ええ、少しですが知っていますよ」  有栖川の長女の名は、暦というらしい。人形のような大きな瞳、薔薇色の頬、上品なすっと通った鼻筋、ふっくらとした唇、艶やかな長い髪は毛先がくるんとしていて華やかで、非常に美しい娘だった。話し方も淑やかで、まさに良家の娘といったところ。視線を交わせば全ての男が堕ちるのではないかというその可憐さは、バルコニーから覗く白百合と鈴懸でさえ息を呑むほどだった。  暦は、良く笑った。気品のある容姿とは裏腹に、親しみやすい性格をしていた。人見知りの織も、あまり緊張せずに話しているようだ。  何もかもが完璧な暦。碓氷家の次男と結婚するにはこの上ない娘であったが……白百合と鈴懸は納得のいかない様子だ。 「……織、まさかあの娘に惚れたりしないだろうな」 「何を言う鈴懸、織を信じろばか者」 「わかってるけど……なあ、碓氷家の次男って立場もあるし……織があの娘と結婚しないと言い切れるのか……?」 「おまえらしくない。あの娘は確かに美しい。予想外に美しい。しかし大丈夫だ、織はあの娘に惚れないぞ!」 「……そう、かな」 「なんたって詠が側にいたのに詠に惚れなかった男だからな、織は! あの暦という娘も詠の愛らしさにはかなうまい」 「……へえ、そうかい。あぁー……織……なんでおまえは財閥の家に生まれたんだ……織ー……」 「妾の話をきいているのか! 鈴懸!」  幸せの絶頂にあった、織と鈴懸。そんな二人に突如として現れた、恋の障害。それが暦。鈴懸と白百合が受け入れられないのも当然であった。  バルコニーのうえでやきもきとしている鈴懸と白百合。そんな二人が見守るなか、暦が織の顔を覗き込む。女慣れしていない織はぎょっとしたようだったが、暦は柔らかな微笑みを浮かべてみせた。 「織さま。織さまは、恋をしていらっしゃいますか?」 「えっ?」 「ふふ、教えてもらったのです。恋ってとっても楽しいって。恋をすると、世界が変わるって。でも、私、恋を知らないの。だから、織さま。私に、恋を教えてくださいませんか?」 「――……」  暦の言葉に、織はおし黙る。そして、上から見守っていた鈴懸も。  あまりにも純粋な彼女の言葉。男心を揺さぶるには強烈すぎるもの。どこか物悲しい彼女の言葉を聞いては、男ならまず思うだろう。「彼女に恋をする喜びを教えてあげたい」と。愛する織が美少女にそんな言葉を浴びせられる様を見て、鈴懸は焦りに息を呑むが――織は、首を縦にはふらなかった。  織は――暦に恋を教えてあげることなど、できない。そう、鈴懸がいるから。織にとって、恋の歓びとは鈴懸の存在であり、他人にそれを教えることなどできやしない。織は立場上迷ってはいたが、意を決したようにじっと暦を見つめ返す。 「……っ、暦さん。私は――……!」 「そう、「恋は楽しい」って、証明してくださいな! 「恋は苦しい」が口癖の彼に!」 「……彼?」  ――が、しかし。  ……なにやら、雲行が怪しい。   この流れは、暦に織が男を教えるという流れではなかったのか。なにか、違うような気がする。いやな予感を感じた織が、暦の視線の先に目を向けると―― 「う、わぁあ!? いつからそこに!?」  ――そこには、今までは姿を見せなかったはずの、男が立っていた。 「なっ……あれは……」 「ほう? 知っておるのか、鈴懸」 「あいつ、白虎だ……大物の神だぞ……有栖川にいたのか……」  ――白虎。それが、その男の種族のようだ。  ただ、そんな鈴懸と白百合の会話が聞こえていない織にとっては、突然現れた怪しい男も同然。いったい彼が何なのかとたじろぐ織に、暦が眩しい笑顔を向ける。 「彼は、千歳(ちとせ)です。有栖川家の守護神の由緒正しい白虎ですわ」 「ちとせ……びゃっこ……?」 「ふふ、千歳から聞いていますのよ。織さまは、咲耶様の生まれ変わりなのでしょう? 千歳は咲耶様に片想いをしていて……私、どうしても千歳の恋を叶えたくて、この縁談を利用させてもらおうかと」 「はっ……話が読めないんですけど……!?」 「ですから、織さまは形式上は私の旦那さまになっていただくんですけど、実際は千歳の恋人になっていただきたいのです。有栖川家で一緒に暮らしましょう!」  純粋そうな笑顔で、暦はとんでもないことを言ってのけた。これには織も、そして鈴懸と白百合も驚きである。  この娘、なんと織を自分の旦那にし有栖川邸に住まわせることで、千歳という彼の恋を叶えようとしているのである。自分自身のこれからの恋を蔑ろにし、千歳のために結婚する。捨て身にもほどがある彼女の提案に、織は半ば引き気味で首を振った。 「こ、暦さん……! 結婚はそういうものじゃありません……! 貴女自身のためにしてください!」 「……碓氷家の男であろう貴方が何を言っているのかしら。知っているはずよ、私たちは自分のための結婚なんてできないわ。結婚相手なんて選べないの」 「そ、それは……」 「でも、たまたま今回のこの政略結婚が千歳のためになるのよ。喜ばしいことだわ。お金のために結婚するのは癪だけど、千歳のための結婚なら私納得できる。織さま、貴方もそう思わない?」  きっぱりと、言い切った暦。織はそれに何も反論できなかった。  大財閥の家系に生まれた子ども。それを自覚し、家のためにと自らの恋を捨てる暦。織はそんな彼女を、批判することなんてできなかった。だって。自分も暦と同じ立場に立つものでありながら、そんな自覚を持つこともなく恋をしてしまっているのだから。碓氷家の次男としての責任を果たすつもりのなかった織に、有栖川の長女たる姿を見せる暦を批判する資格などないのである。 「織さま。どうぞ、この縁談を前向きに考えくださいな。きっと貴方を幸せにしてみせます。千歳は、とても優しいのよ」 「……あ、あの」  たじろぐ織に、暦が微笑みかける。「いやだ」なんて、言えなかった。  暦の後ろに立つ千歳が、じっと、織を見つめていた。

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