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千歳の章25
織が屋敷に帰るころには、すっかり空は暗くなっていた。すっかり疲れてしまった織は早々に床に就きたい気分であったが、暦と色々と話したせいか鈴懸に会いたくなって、屋敷の中を探して回る。暦との結婚の話がでてからというものの、鈴懸との触れ合いが一気に減った。関係が悪くなったわけではないのだが、お互いに遠慮してしまっていたというのが大きい。
なかなか鈴懸を見つけることができなくて、まさかと思って外にある大木のもとへ行ってみれば、やはりそこにいた。枝を飾る葉が傘になって、雨はそこには当たらないようになっている。
「――……鈴懸」
呼びかけてみれば、鈴懸が織に気付いて、はっとしたような顔をした。上から織を見下ろし、「どうした」と声をかけてくる。以前ならば、ここにいる鈴懸に声をかけてば問答無用で上にあげられたから……こうして、離れた距離で話すのは、なんとなく寂しい。
「……傍に、行きたいんだけど、……」
「……おう」
頼めば、やっと鈴懸は織を上にあげてくれた。ふっと不思議な力によって鈴懸の傍まで移動した織は、恐る恐る、鈴懸の目を覗き込んで見る。
「……なんで、目、逸らすの」
「……おまえを見ていたら、おまえを、好きになる」
「……、」
鈴懸は、最近はなかなか目を合わせてくれようとはしない。けれど、それは織を嫌いになったなんて理由ではなく、これから暦と結婚する織に気を使ってのことだ。織と、それから鈴懸自身のなかになる、お互いへの恋の花をいつまでも育てていくわけがないから。
しかし、今の織にはそんな鈴懸の気遣いは不要だった。彼と、ちゃんと話をしたかったから。
「今日……暦さんと話したんだ。暦さんは俺に、自分のしたいことをきちんと考えろって言ってきた」
「……?」
「……あの人、すごくはっきりした性格だから、……俺が、鈴懸への気持ちを抑えたまま結婚に踏み切ろうとしているのが気に食わなかったんだと思う。曖昧な気持ちのままの俺に、自分の人生を捧げるのがすごく嫌なんだろうね」
鈴懸は、「何が言いたいんだ」と言った目で織を見つめてきた。別れ話ならさっさとしてくれないかと、そんな目で。鈴懸にとって、織との明確な離別は恐怖だったのだろう。それを匂わせるような会話を、引き伸ばしされるのを非常に嫌がっている様子だった。
……が、織は別に鈴懸に別れ話を持ちかけたつもりなどなく。
「……今、俺のまわりは、すごく……みんな真剣に恋をしている。でも……俺は、恋から逃げていた」
「……逃げてなんて、いないだろ。おまえの立場なら、自分の恋路を突き進みたいって言うのは、わがままと受け止められかねない。俺もおまえも、必死に想いをこらえて……それだって、真剣のお互いのことを想っているから、」
「……違うんだ、俺は、ただ……全てを、流れに任せようとしていた。貴方との別れも、結婚しないといけないから別れなきゃいけない――俺の意思じゃない、そんなことばかり考えて。そんな、俺自身の意思を隠して何もかもをなあなあにしてしまうのは、……きっと、真剣に恋をしている人たちへ、すごく失礼な行為になる」
「……」
そこまで言えば、鈴懸の顔がわかりやすく曇った。織との別れを決意したような顔だった。気の抜けたような、無理をしているような、そんな無表情。
「……じゃあ、織は……今、俺に自分の意思で別れを言いに、」
鈴懸は抑えきれない切なさに、声を震わせる。瞳に影を落とし、……そして、涙を堪えるように睫毛を震わせながら、織からぐっと顔を逸らした。
しかし、織の言った言葉は、鈴懸の予想のつかないものだった。
「――だから俺、結婚断ろうと思って」
――鈴懸は、聞き間違いかと固まってしまう。怪訝な顔つきで織を見つめるが、織は穏やかな顔のまま。
「……いや、断るなんて……できるのか?」
「わからない」
「……だよな、そもそも断れるなら最初から断れたじゃねえか」
織が冗談を言ったわけじゃないらしいと理解した鈴懸は、驚きのあまり思わず織の肩を掴んでしまう。
鈴懸は人間たちの決まり事をきっちりと理解しているわけではなかったが、織がそう簡単に自分の意思を通すことのできない立場にあるということはわかっている。だからこそ、結婚を断るという選択肢は今までなかったし、考えもつかなかった。
……それなのに織は、「結婚を断る」と言う。
「断れるか断れないか……というより、俺はちゃんと自分の気持ちを知ってもらいたいんだ。もしかしたら、もう結婚式の段取りまで決めちゃって、後戻りできないところまできているかもしれない。他の財閥にも噂が広がっていて、破局なんてするわけにはいかないって状況かもしれない。けれど、せめて俺は……俺の、親に。俺は、鈴懸のことが好きって知っていて欲しい」
「……」
織の考えを聞いて、鈴懸は目をぱちくりと瞬かせた。まさか織から、親の話がでてくるとは思わなかったからだ。織は今まで……自分の家族から、逃げていたから。
そして、驚きと同時に、感慨深いものもこみ上げてくる。織もずいぶんと変わったなあ、と。
「ちなみに、なんで親に自分の気持ちを知って欲しいって思うんだ」
「……ん、」
どうせ何も変わらないかもしれない、そんな思いを持ちながらも、親に自分の想いを訴えたいという織。何が織をそこまで駆り立てたのだろう、鈴懸はそれが気になってしまう。
鈴懸が問えば、織は少しだけ顔を赤らめて俯いた。何を照れているのかと鈴懸がその顔をのぞき込めば、織はそっと鈴懸の手に自分のものを重ね、こてんと頭を肩に乗せてくる。
「暦さんは、自分自身の誇りのために、有栖川の意志に従っているらしいんだ。じゃあ、俺の誇りはなんだろう……そう考えると、……貴方と、出逢えたことかなあって」
「……、」
織はすり、と鈴懸の首もとに頭をすりつけると、すうっと目を閉じる。それは、想いを馳せているような顔で。
鈴懸は、そんな織の顔があまりにも美しくて、思わず見とれてしまった。
「貴方がいたから、俺の「これから」があるんです。貴方と出逢っていなかったら、俺には何もなかったままだった。だから……こうして人生の岐路に立ったとき、俺の貴方への想いは何よりも大切にしないといけない」
開いた織の瞼の下に、透き通るような瞳。織はその瞳に鈴懸の姿を映すと、幸せそうに微笑んだ。
「大好きです。鈴懸さま」
「――……ッ」
鈴懸は、食らいつくようにして織を掻き抱いた。そして、抱き込めた織の頭に頬ずりをすると、何度も「愛してる」とささやく。
織の言葉が、本当に嬉しかった。そして、織のことが本当に愛おしくなった。
以前織は、この出逢いと別れは運命だと言った。そのとき鈴懸は、こんなに苦しい想いをするくらいならこの運命を呪いたいと思った。けれどーーそれは、間違いだったと、今、気付く。織との出逢いは、この先なにがあろうともーー二人にとってかけがえのないものだ。
「織……愛してる」
織との未来に、恐怖がないわけではない。しかしそれでも鈴懸は、こうして織とふれあっている今を、幸せだと、噛みしめていた。
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