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白百合の章2
「変な話だと思いませんか、旦那。人は皆、地獄を恐れる。地獄の門の前で脚を震わせ、この世の終わりのような顔をするんだ」
屋敷の縁側で酒盛りをする男が二人。一人は壮年の長髪の男、そしてもう一人は痩身の美青年。
「人の世ほど恐ろしい地獄はないと言うのに。死んで、何を今更恐れるというのか。地獄など、うつしよに比べたら天国のようなものなのに」
「……それは貴様の感覚だろう、吾亦紅 。地獄に住まうお前に、うつしよと地獄を公平に比べることなんてできないんじゃないのか」
「……へえ、そういうこと言う? 旦那も随分丸くなったもんだ。昔は人間界を小馬鹿にしていたくせに――何か、心境の変化でもあった? 玉桂の旦那」
吾亦紅――そう呼ばれた青年は、玉桂のお猪口に酒を注ぎながら彼の目を覗き込む。その金色の瞳は強烈なほどに邪悪であったが、玉桂は全く動じない。じろりと吾亦紅を見下ろすと、注がれた酒を一気に飲み干してしまう。
「貴様、ここに何をしに来た。私の心を覗こうとするとは、大した度胸じゃないか」
「ふふ。別に。そんなに怖い顔をしないでよ、旦那。僕はただ、旦那に会いたかっただけだから」
吾亦紅――彼は容姿だけで言えば玉桂の知り合いの中で最も美しかった。肌は陶器のように白く滑らかで、涼やかな切れ長の瞳が美しい。少々癖のある漆黒の髪は清潔感があるが、耳元に光るピアスのせいか妙な色気を感じさせる。そしてなによりも、口元にある黒子が蠱惑的だ。あまりの美しさに血が通っていることを疑いたくなるような、その容姿。玉桂は不意に彼を、とある人間と比べて――ふっと笑ってしまう。
――こんな人形のような男よりも、織のほうが数倍美しい。
「……玉桂の旦那。やっぱり、何かあっただろう? 優しい目をするようになったものだ。酒の肴に、思い出話でも聞かせてくれないかい?」
「断る。貴様に話すようなことじゃない」
「旦那のいけず。もう少し僕に優しくしてよ」
熱の通わない、そんな表情を貼り付けたままの吾亦紅。そんな彼を見ていると、織が恋しくなってくる。あれほどに美しい人間は二人と存在しない。容姿ももちろんだが、魂が何よりも美しい。
玉桂は織のことを思い出しながら、吾亦紅のことをあしらっていた。なぜ、彼がわざわざ月の世界までやってきたのか、検討もつかない。吾亦紅は、普通の妖怪ではないのだ。
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