193 / 224

白百合の章37

 夕食の後、玉桂にもらった薬を呑めば、確かに体は楽になった。そこそこの即効性があるらしく、昼間は恐ろしく怠かった体が嘘のように軽い。視界がぐるぐると回るということもなく、自らの足で立って歩けるほどまでに回復した。  しかし、回復したとはいっても、これは一時的なもの。すぐに床について寝るのが正解なのだが、僕は今の体が動く内にどうしてもやってみたいことがあった。 「……ごめんね、旦那」  向かった先は、玉桂の部屋。玉桂が絶対に帰ってこない今宵、僕はどうしても、玉桂の部屋にある、とある呪術具を拝借したかったのだ。  玉桂の部屋にある、鏡。この鏡は、遠く離れた場所の出来事でも映し出すことができるという、妖術のこめられた鏡だ。僕はどうしても、この鏡を使ってみたかった。どうしても――見たいものがあった。 「……」  鏡に触れて、見たいものを頭の中に描く。少しずつ、鏡のなかに――映像が、浮かびあがる。  ――僕は、怖かった。 「櫨……ごめん、こんなことをして」  僕が鏡で見たかったもの、それは――櫨だった。  毎日のように帰ってこない、櫨。僕が床に伏しても、寂しさに嘆いていても、絶対に帰ってこない櫨。彼は、何をやっているのだろう――それを、今まで全く疑わなかったとは、言い切れなかった。彼は忙しいのだと自分に言い聞かせていたが、心のどこかで彼を疑っていた。そして、疑っている自分が憎かった。  僕は櫨の潔白を証明するために、この鏡で櫨を見たかったのだ。 「僕は――……僕は、貴方を、愛し――」  愛していると、心から言いたい。その願いを込めて、僕は――「それ」を、見てしまった。 「――……、あ、」  鏡に映っていたのは――櫨。そして、もう一人。人間の女。  裸の女と、着物をはだけさせた櫨。 「……、この鏡は、嘘を映す鏡なのか、……? 真実を、僕に見せてくれ……ねえ、」  聞こえてくるのは、女の嬌声。吐息。肉と肉がぶつかる音。  櫨の「さくや」と彼女を呼ぶ声。  櫨は、咲耶を抱いていた。 「……さくや、……さくや? はぜ……櫨の妻は、僕だよ、……はぜ……?」  鏡に映る女は、咲耶。僕が人間界で見た、魔性の女。鬼。  彼女は、どんな妖怪であろうと堕とすことのできる化け物。櫨はその妖気にやれられてしまった。その事実はすぐに理解できた。けれど、そんなことはどうでもいい。  櫨は、僕を放っておいて彼女とこうしてまぐわっていた。だから帰ってこなかった。僕は……櫨に、捨てられたのだ。その事実だけが。僕を刺す。 『はぁ、はぁ――咲耶、……咲耶』  その声は、僕の名を呼ぶためにあるものではなかったのか。その腕は、僕を抱きしめるためにあるものではなかったのか。その熱は、僕と未来を産むためにあるものではなかったのか。  貴方の声は、咲耶を呼ぶ。貴方の腕は、彼女を抱きしめる。貴方の肉棒は女を貫く。 「櫨……櫨、……僕の名を、呼んで……櫨」 『咲耶、――咲耶』  失望? 絶望? 言葉では言い表せないようなどす黒い闇に、心が吸い込まれていくような気がした。目の前が真っ暗になり、体を起こしていられなくなった。 「櫨……僕は、……櫨を、愛して、……」 『咲耶――愛している』 「櫨……」  玉桂すらも堕とす、化け物じみた彼女の妖力。櫨はそれに負けた。櫨の意思に関係なく、櫨の体は咲耶に惹かれてしまった。理屈ではそれをわかっていても、僕はその事実を受け入れられない。櫨が僕以外の人を抱いているという事実を、信じたくない。  涙で視界が歪んでも、すさまじい吐き気で聴覚が狂っても、なぜか櫨の声だけは鮮明に聞こえてきた。櫨が咲耶を呼ぶ声が、咲耶に愛をささやく声が、聞こえてきた。 「櫨……いやだ、……僕を、……僕だけを、……愛して、櫨……」  鏡に映る映像を消す術も知らない。消すために体を動かすことすらかなわない。  鏡が陽炎のようにゆれる。歪む。僕は、拷問のように、ただ永遠に、その映像を見せつけられていた。  頭の中に、櫨と出逢ったときの記憶が再生されていた。あの頃の僕に、言いたかった。 『その男についていくな。その男を愛するな』  櫨のことは、愛している。櫨と恋に堕ちたことを、後悔はしていない。けれど、こんなに苦しい思いをするのなら、愛なんて知らなければよかったと思う。ただ暗い空だけを見上げる、あの頃の僕を――羨ましい、そう思う日が来るなんて、来てほしくなかった。  

ともだちにシェアしよう!