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白百合の章40
*
暗い川の上を船で渡っているような、そんな心地だった。
僕が目を覚ましたのは、腹が抉られてから一ヶ月後くらいだったようだ。あのとき、庭を彩っていた紅葉を纏った木は裸になっていて、空気が冷たくなっている。季節が変わりだしていた。
僕が目を覚まして初めて会ったのは――驚くことに、櫨だった。彼は僕の傍らに泣きはらした顔で座っていた。
「……櫨?」
「……吾亦紅……」
僕は彼を見た時、なぜ彼はここにいるのだろうと思った。そして、そんなことを思うこと自体がおかしいのだと、すぐに気付いた。妻が瀕死の重傷を負って床に臥しているのだから、こうして夫が妻の目覚めを待つことは当たり前なのだ。それを、僕は疑問に思った。
――いつしか僕は、櫨が自分の夫であるということを忘れていたのだ。
「よかった、……よかった、吾亦紅……生きていて、よかった……」
「……、」
櫨は、僕の目覚めを心から喜んでいた。おかしなことではない。彼は、僕を愛している。ただ、咲耶の呪いにはどうしても勝てず、彼女を求めてしまう、それだけ。それもわかっていたから、僕は彼の言動を「白々しい」なんて思わなかったし、そこまで僕を心配してくれたことを嬉しく思った。
けれど。
「……櫨。ごめん。子供、護れなかった」
「……っ、そ、れは、おまえが気にすることじゃない。とにかく、おまえが生きている……そのことに、感謝している」
「……ところでさ、櫨」
「……っ、」
「……僕の体、もう子供産めないんだ。僕は、貴方を……心で繋ぐことも、体で繋ぐこともできなくなった。もう、いいと思わないか。櫨は僕のもとから、離れていってもいいと思う」
僕はもう、彼の妻でいたいとは思えなかった。奈落の縁に立って引きずり込まれることに怯えているくらいなら、いっそ一気に突き落とされたほうがいい。中途半端に、淡雪のような光に縋り付くのには、もう心が限界だった。
「わ、吾亦紅……すまない、本当に……すまない。すまなかった……吾亦紅……」
「……咲耶と浮気していたことを言ってる? 別に、それは怒っていないよ。そうだな……謝ってほしいといえば、そのことじゃなくて。……僕のことを、一瞬でも愛したことを謝ってほしい。何故、僕に希望なんてものを教えた。何故、僕に愛なんてものを教えた。そんなものを知らなければ……僕は、こんなに……苦しくなかった」
「――……っ」
はじめから、櫨に出逢わなければよかったと思う。彼のことは愛している。けれど、こんな運命を辿るのなら、その出逢いは不幸でしかないだろう。昔の僕は、自分が不幸だともわからなかった。そのままでいればよかったのだ。
櫨は、そんな僕の言葉を聞くと、絶望したような顔をして、声をあげて泣いた。ずっと、泣いていた。
「なんて言葉を、吾亦紅に言わせてしまったんだ……俺は、……俺は……」
……泣かないでほしい。貴方は何も悪くない。悪いのは、運命だ。貴方と僕を引き合わせた、この運命が何もかも悪い。
だから。
「……出て行ってくれ、櫨。もう、貴方の顔を見ていたくない。僕はもう、櫨のことを好きでいたくない」
僕は、櫨に別れを告げる。櫨も、それを跳ねのけることはできなかった。咲耶から逃れることができないと、自分でもわかっているのだろう。
櫨は何度も何度も謝って、そして、泣いて。ようやく、この部屋から出ていった。僕は、彼が部屋から出ていく背中を見つめて、なんとなく、彼との日々を思い出していた。出逢い、そして彼に惹かれて、愛されて。要らないはずのこの記憶は、きっと、走馬燈だ。心が死のうとしている。
「……さよなら、櫨。愛していたよ」
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