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白百合の章44

*  二年も経てば、心の傷も少しは癒えてくる。地獄の使いとして認められた僕は、しばらくは現在の使いの補佐として働くことになったのだが、よくよく考えればそれは櫨のもとで働くということだ。そのことに心の中で踏ん切りをつけられるようになるのには、やはり時間がかかった。  明日から、櫨と共に働くことになる。二年かけて心の準備をしていた僕だったが、さすがに前日は落ち着かなかった。家でじっとしていることもできずに、ふらふらと、外を歩いていた。 「……ここは」  目的もなく歩いてたどり着いたのは、小さな神社だった。少々古い神社ではあるが、空気が澄んでいて美しい神社だ。なんとなく、僕はそこに惹かれた。特に祈ることもないが、石段を登ってゆく。 「……そこにいるのは、この神社の神か」 「――ん?」  石段を上ったところに、鳥居があった。かなり老朽化している鳥居で、すっかり紅もはげている。その鳥居の上にごろんと寝そべっている男がいて、それは明らかに人間ではなかった。  男は、僕が声をかけるとのっそりと起き上がる。美しい銀髪と、息を呑むほどの美丈夫。思わず僕が魅入られていれば、男は僕を見るなりニッと笑い、話しかけてきた。 「俺が見えるか。見えないように姿を隠していたつもりなんだけどな」 「……鬼だからね」 「へえ、鬼。めずらしい客だ。俺はこの神社に祀られている龍神だ」 「……名前は?」 「ああ、俺の名前? 俺は――……あっ」  龍神と名乗った彼は、鳥居の奥――本殿から鳴った鐘の音をきくなりハッと振り返る。僕も彼の視線を追ってみれば、そこには手を合わせて祈りを捧げる人間がいた。 「……あの子も、随分と脚がよくなったな」 「……足が悪い人間なのか」 「ああ、大きな事故にあったらしくてな。怪我自体は完治したが、後遺症が残ったらしい。前までは脚を引きずるようにして歩いていたが……ここに祈りにくるようになってからはかなり良くなっている」 「……貴方の力で?」 「……あー、さあどうだろうな。別に俺は、怪我を治す力なんて使っていない。俺が持っているのは……」  龍神は、祈る人間を優しい瞳で見つめていた。そして、何かをつぶやく。何を言ったのかは聞こえなかったが、おそらく、祝詞のようなものだろう。その瞬間――柔らかな風が吹いて、木がさらさらと揺れる。 「奇跡を叶える力だ」 「……奇跡? それを叶える力を持っているということは、貴方は万能の神なんじゃないの」 「馬鹿言え。奇跡を魔法だとでも思っているのか。奇跡っていうのは、もともとその人間が持っていた力や心の強さが最大に発揮されたときに起こるもので、不可能を可能にする力ではない。俺ができるのは、その人間の持つすべてを高めてやるために、背中を押すこと。その人間の叶え得る最大の幸せを実現させてやることだ」 「……じゃあ、あの人間の脚が治ったのも、あの人間のもともと持っていた強さによるものだと」 「そうだな。毎日毎日こんな石段を登って、治したいと祈っていれば、そりゃよくなるだろうよ」 「……そういうものか」  名前を聞きそびれたな、と思った。しかしここの神である以上、この龍神はなによりもここへ祈りに来る人間が大切なのだろう。話をバッサリと切られてしまったことに関しては、特に何も思わなかった。  この龍神の持つ力は、僕にとっては不思議なものだった。人間の潜在能力を引き出すことができるなら、無理やりその人間の運命を捻じ曲げて一気に幸福を導くことだってできそうなものだ。それをわざわざこの龍神は、その人間自ら運命を変えるように指南している。時間がかかるし、なにより面倒そうだから、なぜ彼はそんなことをするのだろうと、疑問に思ったのだ。 「貴方が直接その力で治癒してやろうとは思わなかったの?」 「……それも、悪くねえけどな。けど俺は、人間が自分の力であがく姿を見ていたい。その姿こそが美しいと思う」 「……」 「俺は人間が好きだ。だからこそ、俺は人間のもつ力を信じている」  龍神は祈りを終えた人間を見送りながら、微笑んでいた。僕はそんな彼を見上げて、彼に手を伸ばしたくなった。きっと彼なら……僕を救ってくれるんじゃないか、そう思ってしまったから。  けれど、僕はぐっとこぶしを握り締めて耐えた。鬼が神に救いを乞うなど、おかしな話だと思ったのだ。 「……龍神様。僕も、ひとつ祈っていいか。僕は人間ではないけれど」 「おう、もちろんだ。おまえが誰であろうと、俺はおまえの祈りを受け入れる」 「……哀しい魂があったら、手を差し伸べてやってほしい。貴方になら、きっと……呪われた魂だって、救うことができると思うんだ」 「……」  僕は、僕自身のことを祈らない代わりに、僕の周りで苦しんだ人々のことを祈った。櫨も、玉桂も……呪いにあてられて運命を崩壊させてゆくだろう。そして――呪いの根源である、咲耶も。僕は、彼らが救われて欲しいと思っていた。好き、嫌い、そんなことはどうでもよく。ただ、救われることのない魂というものが、あまりにも哀しかった。僕自身が、そうであったから。  龍神は、僕の祈りを聞くなり怪訝な顔をした。ここで他人の祈りを捧げたのだから、当然と言えば当然の反応である。しかし、やがて龍神ははあとため息をつくとにっと笑う。 「ああ、いいだろう。俺が迷っている魂に道を照らしてやろう」  ――龍神は、僕の心を見透かしているだろう。彼の力強い言葉に、僕が救われたということも。彼の言葉は、僕にとっては約束ではなく、希望だった。誰にでも救いがあるのだと――そう思わせてくれた。どんなに呪われた魂でも、哀しい魂でも……いつか救われるのだと、そんな希望を持たせてくれた。 「……ありがとう、龍神様」  どんな暗闇でも、光はあるのか。そう思う。それを知っただけで、僕にとっては救いになる。 「今度俺のもとに来るときは、おまえ自身の祈りを聞かせてくれ」 「それは、どうだろう」  龍神は笑う。僕は彼に背を向けて、石段を下りて行った。  僕自身の祈り――考えて、ため息をつく。僕が鬼だから、……と祈りを躊躇したが、本当の理由はそれだけではない気がした。僕は、僕が救われることを恐れていたのかもしれない。幸福に、恐怖を覚えていた。  もしも龍神に僕自身のことを祈れる時が来たら、それは僕がすでに救われた時だろう。今の僕に――幸福を求める強さは、ない。

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