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白百合の章43
軽率に、誰かに抱かれるものではないと思った。
玉桂に無理強いしておいての言いぐさではあるが、僕は彼に抱かれたことをひどく後悔した。自分が、生きているのか死んでいるのかわからなくなってしまったのだ。感情がぽっかりと抜け落ちて心の中に隙間風が吹いているというのに、彼に抱かれたことで、体にも心にも熱が生まれた。自分というものがわからなくなってしまう、そんな気持ちの悪い心地だった。
「……旦那。ありがと」
僕は、となりで眠っている玉桂を起こさないようにそっと布団を抜け出る。そして、触れるだけの口付けをした。
もしも、玉桂に抱かれることなく、このままこの屋敷を出て一人で生きていたら。いつのまにか、ふっと消えるように死を選んでいたかもしれない。けれど、今の僕にはそんな未来が見えない。
僕は、生きるだろう。生きる希望などないが、生きる意味を探してこれから生きていくのだろう、そんな気がした。彼にくべられた火は、たしかに僕のなかで燃えていた。
「……じゃあね、旦那。たまに、帰ってくるからね」
音を立てぬよう、足を忍ばせて歩く。ゆっくりと障子をあければ、さっと青い月明りが差し込んできた。
玉桂の屋敷の庭は、美しい。ぽっかりと大きく浮かぶ満月より降り注ぐ月光に、花吹雪がひらりひらりと光を帯びて舞う。幻想的なその庭は、まるで夢に描いた楽園のようで、ここから出るということが、幸福という名の夢から覚めるということなのだと、そう語りかけられているような気がした。
地面に足を下ろす。静かに歩き始める。振り返ればそこにあるのは、夢の続きだ。振り返るわけには、いかなかった。
「狸寝入りが、あまり上手じゃないね。旦那」
呟いて、僕は夢から覚める。
さようなら、美しい夢の世界。また会うことは、きっとないだろう。
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