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白百合の章47
空が闇に塗れると、僕たちの仕事も終了だ。夜の記録はまた別の者がやるらしい。
「はあ……疲れた」
「……吾亦紅? そんなところで寝転がると体痛めるぞ」
「眠いから仮眠とってから帰る」
「し、しかし……」
「僕はもともと家なんて持っていなかったんだから慣れてる。放っておいてくれ」
仕事には慣れてきたが、ほとんど働いたことなどない僕の体はやはり相当疲れているようだった。僕は家に帰るのも怠くて、その場に丸まって瞼を閉じる。
櫨はそんな僕が心配なようだった。一向に帰る気配はなく、その場でおろおろととどまっている。
「……夜は冷える。お、俺ので悪いがその……羽織っておいてくれ」
「……櫨? ん、」
ばさ、と何かをかぶせられる気配を感じて、僕は目を開ける。同時に、ふわっと懐かしい匂いが鼻を掠めた。僕の体に、櫨の羽織がかけられていたようだ。
――胸の奥にしまい込んだ様々な感情がざわめく。
「……」
「じゃ、じゃあ……お疲れさま。また、明日」
前髪の隙間から櫨を見上げれば、櫨はびくっと僅かに体を震わせて僕から目をそらす。
――櫨が、僕のことをどう思っているかなど……手に取るようにわかる。櫨は、いまだに僕のことが好きなようだ。僕のことを見つめるまなざしは、昔と変わっていない。けれど、そこに罪悪感などのしがらみが纏わりついて、それを隠そうとしている。
すべては、咲耶の呪いに抗えなかったせい。それさえなければ、櫨はずっと僕の傍にいただろう。
「――まて、櫨」
「……っ、な、なんだ」
僕は逃げようとする彼を引き留める。体を起こし、かぶせられた羽織を纏って、戸惑う彼の顔を見上げる。
「櫨……今の貴方は、幸せなのか」
「えっ……」
「咲耶に囚われるなら、囚われたままでいいじゃないか。僕のことなんて気に掛ける必要ない。咲耶との恋物語になにか不満でも?」
「何を、言っている……吾亦紅。俺は……」
櫨のことをどうしても目で追ってしまう僕は、彼の「今」がなんとなくわかってしまった。
櫨は、苦しみながら生きている。もちろん、僕への罪の意識もあるだろう。しかしそれだけではなく――咲耶という存在が、櫨にとって重荷になっているのだ。
咲耶の呪いに屈した櫨は、そのまま咲耶の虜になってしまえばよかった。そうすれば、ここまで苦悩する必要はなかったのだ。しかし、それなのにいまだに僕を愛している。咲耶の呪いに、無意識に抗っている――そういうことになる。では、抗う理由はなんだ。僕への愛、それだけなのか。咲耶への愛は本当に「愛」なのか。「愛」と呼べる優しいものなのだろうか。咲耶への愛が、櫨の知っている愛と激しい乖離を起こしているのではないか。
櫨は、心のどこかで咲耶への愛に疑問を抱き、堕ちてはならないと踏みとどまっている。それが、呪いへの抵抗を生み出している――僕はそう考えていた。
そんな推察がどこからくるのかと言えば。あの、かざぐるまからだ。あのかざぐるまに込められた念は、とてもじゃないが「愛」を求める純粋なものではなかったのだ。
――咲耶のかざぐるまに触れた瞬間、僕は櫨を苦しめているその呪いに疑問を抱きはじめていた。あのかざぐるまには、あまりにも哀しく、あまりにも昏い憎しみが込められていたのである。
そして――その念に導かれるように、僕のなかにある絶望も、声を上げ始めていた。
「……なんとなく、彼女の気持ちがわかるんだ。彼女は、人間たちから捨てられた。僕は貴方から捨てられた。愛から否定された僕たちは――……愛を否定している。愛を憎んでいる。櫨や他の妖怪たちにかけられた呪いの本質はなんなのか――僕はそれが気になるんだ」
「……、」
「櫨……咲耶への気持ちは、昔、僕を愛していた頃のものと同じ?」
僕は立ち上がり、櫨に近づいてゆく。固まる櫨は逃げることもなく、僕の瞳を凝視していた。
「ま、待て……吾亦紅、近づかないでくれ、……」
「『私を愛して』『私を忘れないで』……櫨たちは呪われるがままに、咲耶を愛するだろう。けれど、咲耶は――愛を拒絶する。そう、激しい愛の拒絶――それが、咲耶の呪いの本質だ」
「わ、吾亦紅……! そんな目で、俺を見て、それ以上――こないでくれ……!」
咲耶の呪いは、愛を狂わせる呪いなんかじゃない。愛を拒絶する呪いだ。愛などこの世からなくなってしまえばいい――そう祈る僕たちだけがわかる、愛への憎しみ。それが、愛を知る者たちを苦しめる呪いと変貌する。
「『愛している』……咲耶はそう言うだろう。彼女自身も、そのつもりだろう。けれど――違う。違うんだ、僕は……痛いくらいに、それがわかる」
「吾亦こ、――」
とうとう僕と櫨の距離は、零へ。僕は櫨に抱き着くと、腕を彼の背に回してきつく抱きしめた。
「櫨――僕のことを、愛して。僕のことを、忘れないで。呪ってやる。櫨、貴方を呪ってやる。苦しめ、おまえなど――僕に狂って苦しめばいいのに……!」
「――……ッ」
――僕に、咲耶の呪いは効かない。だから、かざぐるまに触れたところで咲耶へ恋をするのかといえばそうではないが、かざぐるまに込められた念に感化されてしまうのは仕方ない。僕のなかにあった感情にあまりにも似たそれは、眠っていた僕の「呪い」を目覚めさせるには十分すぎた。
切なげに瞳を震わせた櫨に、僕は口づけをした。そうすれば――櫨はたからものに触れるような手つきで、僕の頭に手を添える。
「櫨……貴方さえ呪い殺せれば、僕は救われる。僕に愛を教えた、たった一人の貴方さえ――……」
「ああ、……吾亦紅、……どうか俺を、……呪い殺してくれないか」
「櫨……」
愛の拒絶と、愛の渇望は、表裏一体。咲耶の愛がなぜあんなにも悍ましく感じたのか、ようやく僕は知った。
咲耶は愛を拒絶していた。あまりにも悲しい、それくらいに――拒絶していた、だからだ。
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