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白百合の章50
「白百合様は地主神だ。ここらへんに祠があって、それが御神体になっていてな……」
白百合という神様を見るために、僕たちは町から少し離れた山の麓まで来ていた。ちらほらと民家があるが、人通りは少ない。しかし、どこか活気を感じるその空気は、白百合の加護が行き届いているということだろうか。
白百合の祠は、集落から少し離れたところにあるという。僕は櫨の案内のもと、そこを目指していたが……
「……櫨、人の声が、」
「うむ。……叫び声、か?」
その道中で、大きな事件に遭遇することとなる。
誰かが襲われている――そんな様子を感じ取り、僕たちは声がする方へ急ぐ。助けるためではない。罪を記録するためである。
「正直……人が襲われている場面をみるのは好きではなくてな。記録をせねばならぬから、避けられないのだが」
「助けるのも厳禁だしね」
「ああ」
僕たちは、誰かが襲われていようが、殺されようとしていようが、それを助けることは許されない。「人の生死に干渉してはならない」という鉄の掟があるからだ。人間は「異端」である僕たちに生死の運命を捻じ曲げられてしまった場合――正しい輪廻の理から外れてしまう可能性がある。だから、もしも今襲われている人間を僕たちが助けてしまったとしたら、その人間は正しく転生できず、来世が呪われてしまう可能性があるのだ。
黙って人が嬲られているところを見ていなければいけないのは辛いが、それが僕たちの仕事。僕たちは急いでその現場に駆け付けて――言葉を失う。
「……あれは、」
「――咲耶!」
――襲われていたのは、咲耶だった。餓楽という鬼が数匹、咲耶に群がっている。餓楽は雌の鬼であり、非常に凶暴な鬼だ。咲耶の妖力に導かれ、こうして襲ってしまっているのだろう。
「いや、……いやだ、……痛い、痛い痛い、やめて……殺さないで」
餓楽はその性質故か、咲耶に対して性的興奮は覚えないようだった。「餌」として、咲耶を襲っている。既に咲耶の体には深い引っ掻き傷ができていて、咲耶は半狂乱的に叫んでいた。
「咲耶……咲耶!」
「――待て、櫨!」
襲われている人間が咲耶だと気づいた瞬間――櫨は取り乱したように、飛び出していった。心臓が止まりそうになった。もしもここで櫨が咲耶を助けてしまったら――櫨は掟を破ったことにより、死罪となる。もちろん、それが第一だ。
しかし、もう一つ――僕の頭をよぎったのは。ここで咲耶が櫨に助けられてしまったら、咲耶の輪廻が狂って、咲耶の魂が永久に呪われることになる。本来であれば死んで、きちんと罪を償って生まれ変わることで、その魂は救われる。櫨が彼女を助ければ、それが不可能になってしまう。
僕は衝動的に咲耶たちの前に飛び出した櫨の前に飛び込んで、櫨を制止した。既に拳を振りかぶっていた櫨はそれを止めることができずにそのまま僕に殴りかかってきたが、なんとかそれは受け流してやる。
「と、止めるな、吾亦紅……!」
「馬鹿を言うな、櫨! 死罪になるぞ! それに――ここで咲耶を助けたら彼女は一生呪われたままになる!」
「それでも、それでも……助けねば……! 助けねばならぬのだ……!」
「櫨!」
櫨は理性を失ったように、咲耶を助けようとする。櫨は冷静な判断ができなくなっているのだろう。久しぶりに咲耶を目にしたせいで、彼女の呪いに強い影響を受けてしまっているのかもしれない。
「……櫨! そこにいるのは、櫨……! 助けて、櫨……おねがい……」
咲耶たちの前に出てしまったようで、彼女たちも僕たちに気付いてしまった。咲耶は当然のように櫨に助けを求めている。櫨が咲耶を救えば死罪になるなどということを、咲耶は知らないのだが……妙に僕はイラッとしてしまった。
「いくな、櫨! 死にたいのか!」
「どけ、どけ! 吾亦紅! そこをどけ!」
次第に興奮が増していく櫨に、僕は焦りを覚える。いっそのこと櫨を思いきり殴ってやろうかと実力行使の方法が頭によぎったが――その時だ。
「――櫨っ……お願い、お願い、助けて……! 私まだ、足りないの……!」
「……!?」
ぞわ、と全身の肌が粟立った。これは――咲耶の呪いだ。急激に咲耶の念が強まって、強烈な呪いとなって僕たちに降りかかったのである。
「――咲耶ァ!」
「いっ……」
――まずい、僕がそう思ったときには遅かった。櫨は勢いよく僕を突き飛ばし、餓楽の群れへ突っ込んでゆく。
だめだ、櫨を気絶させてでも止めなければ。僕は焦ったが。思い切り突き飛ばされたせいか頭がふらふらとして立ち上がれない。
「だめ、だめだ! 櫨――!」
僕は喉が千切れるほどの叫び声をあげた。しかし――櫨には届かなかった。
櫨は餓楽を次々と殺してゆく。僕はただ、絶望のままに――「櫨」と彼の名前を呼び続けることしかできなかった。
*
「咲耶……無事で、よかった」
すべての餓楽を殺し尽くし、櫨は血塗れのまま、咲耶を抱きしめた。咲耶は嬉しそうに笑って、櫨を抱きしめ返している。
僕は頭が真っ白になりながらも、二人のもとへふらふらと近づいていった。もう、櫨が死罪になることは確定だ。僕にその罪を覆すことはできない。
「……櫨」
櫨は、すっかり咲耶に取り込まれていた。僕の声など聞こえないと言わんばかりに、ひたすらに「咲耶」と彼女の名前を呼んでいる。
「……あら、吾亦紅。お久しぶり」
「……咲耶」
彼女に名前を呼ばれた瞬間、思わず僕は腰に差した刀の柄を握ってしまった。彼女は何も悪くない――そうわかってはいるのだが。こうも無自覚に、櫨のことも僕のことも傷つけている彼女に、いよいよ憎しみのようなものを覚える。
けれど、その怒りの衝動はなんとか抑えた。抑えた――つもりだった。
「……咲耶。君が、すべての妖怪に愛されたいという気持ちは理解している。けれど……その飢餓的な想いが、誰かを傷つけているということをわかっているのか」
「……そうなの? でも、それがなに?」
「……は?」
「みんなが私を愛している。私がみんなを愛している。その事実だけあればいい。世界が私を裏切った、だから私は世界を裏切る。私は愛されたいという気持ちだけを持っている。その結果、すべてが壊れてしまおうが、どうでもいい」
――何を言っているんだこの女は。
彼女の言葉を聞いた瞬間、僕は確信した。もう、咲耶は人間ではない。呪いに自分自身も蝕まれ、完全に心を失ってしまっている。
「……君のせいで、櫨は全てを失う。幸せも、命さえも。君はそれをなんとも思わないのか。君を愛した櫨が、君のせいで死ぬことを」
「……? どういうこと?」
「どういうこと、って……」
「私を愛したのは、櫨の意思でしょう? 私は櫨の愛を歓迎するわ! とても嬉しい! 櫨が私のために死ぬというのなら、それすらも私は嬉しい! 櫨は私を愛していて、私は櫨を愛している! それだけのことでしょう! 何か、おかしいことがあるの? みんなみんな、そうやって私と愛し合っている! 素敵なことでしょう、おかしなことなんて何もないわ!」
「……」
咲耶は、櫨のことを馬鹿にしているのか。そう思った。
僕は刀を抜く。もう、いい。はやくこうしていればよかった。この女を殺してしまえ。救おうと思った僕が馬鹿だった。
櫨を侮辱したことが許せない。
僕は刀を振り上げる。咲耶はぎょっとして目を見開く。彼女のなかにある「死にたくない」という気持ちは、「まだまだ愛されていたい」ということなのだろう。くだらない――愛する者の気持ちを踏みにじる愛など、あっていいはずがない。彼女は僕と似ていた――そう思っていた。けれど、決定的に違うところがある。
おまえは櫨を愛してなどいない。僕は櫨を愛している。もうおまえなどに肩入れする理由はない、僕にとっておまえは――ただの、櫨の仇だ。
「……咲耶」
――けれど。僕は、刀を振り抜けなかった。櫨の、咲耶を呼ぶ声を聞いてしまったから。
櫨の咲耶への想いは、ただの呪いによる影響だ。でも……彼女を愛しているということは、まぎれもない事実。そんな櫨が、今大切そうに抱きしめている咲耶を――殺せるか。
僕にはできなかった。彼の腕の中で彼女を肉塊に変えることなど、できなかった。
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