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白百合の章60

 咲耶が、死んだ。憎み、恨み、激しい憎悪が僕の生きる糧となっていた。その咲耶が死んだ。僕はどうすればいいのかわからず――ふらり、いつかの神社に訪れた。  明澄神社。龍神が祀られている、由緒ある神社だ。なぜ僕がこんなところに来たのか、自分でもわからない。人間の住む街からは離れた、ぎりぎり僕の管轄外の場所にある神社だ。神に会いたいのなら、僕の管轄にある、もっと力の強い神様に会いにいけばいいのに、なぜか僕は――ここの、名前も知らない龍神に会いたくなった。 「……」  しかし、石段の前で、僕は立ち止まる。あの時、龍神が僕に言った言葉を思い出したから。『今度俺のもとに来るときは、おまえ自身の祈りを聞かせてくれ』。僕には……自分自身の祈りなんて、存在しない。彼に会ったところで、祈る祈りがないのだ。  そうわかっていながら、ここへ来てしまったのは。咲耶のことを、考えていたからだろうか。 「――よう、久しぶりじゃないか。どうした、そんなところで立ち止まって」 「……っ、龍神様」  上から、声が降ってくる。顔をあげれば――そこに、龍神がいた。鳥居の上にあぐらをかいて、頬杖をつきながら僕を見下ろしている。 「……」 「願いが見つかったか? ここに来たってことは」 「……いや、願いが見つからないから、ここで立ち止まっている」 「へえ。じゃあ、俺に会いたかったのか?」 「……はい」 「お。可愛いこと言うじゃねえか」  龍神はからからと笑った。僕の毒気を抜くような、そんな太陽のような笑顔に、彼は本当に神様なんだな、なんて感じる。  からかっているようで、慈しむ。そんな眼差しに、僕の胸がざわついた。彼ならば――僕の心を、開いてくれるだろうか。 「龍神様。聞きたいことがある。貴方は――呪われ、救われることのない、哀しい魂を――救うことができますか。貴方は、奇跡を起こすことが、できますか」 「――……」  モヤモヤとしていた、僕の想いを吐き出す。咲耶は、救われることがあったのだろうか。いいや、僕は咲耶のことは恨んでいる。けれど、彼女が救われないという事実に、なぜか胸を痛めている。僕がなぜこんなことを考えているのかは、わからない。けれど、僕は聞きたかった。奇跡の龍神の口から、「俺ならば救える」と。  龍神はふっと笑うと、困ったように眉をへの字に曲げた。その表情の意図するところがわからず、僕が「できないんですか」と言いかければ。 「それは、誰かの願いか。それとも……おまえの願いか」 「えっ」 「いや――それはどうでもいい。救われたいのが俺の知らない誰かであっても、そしておまえであっても。俺の答えは、変わらない」 「待っ……僕は、」 「――俺は救わないさ。ただ、「救われたい」と願うことすらできず、地面ばかりを見ている者の光となる。手を差し伸べよう、太陽となってみせよう。空を見ろと、俺は言うんだ。その者が自らの力で立ち上がることができたなら、俺の役目は終わりだ。最後に俺は、自らの足で歩きだしたその者に、祝福を送るのさ」 「……」  ――龍神の言う言葉の意味を、僕は理解できなかった。なにもかも。では、空を見上げるための目すら潰された者は、救われないのか。立ち上がる足を切り落とされた者は、祝福を受け取ることが出来ないのか。僕には、目がない、足がない。この世界の美しさを知ることも、向かう場所もないのだから。 「……そうか、答えてくれてありがとう」  ああ、僕は何を彼に尋ねたんだっけ。  彼は、光だ。彼は、太陽だ。僕は彼と目を合わせているのが怖くなって、彼に背を向けた。  さようなら、龍神様。僕はきっと、貴方への祈りを探し当てることは一生できないだろう。 「――前にも言ったな。今度は、おまえ自身の願いを持ってここへ来い。石段の前で立ち止まらず、この明澄神社の鳥居をくぐって――俺に会いに来い。きっと、おまえは救われるよ。おまえが願うことを忘れない限り」  僕は駆けた。龍神から逃げるように、明澄神社から立ち去った。  救いなど、この世界のどこにもないのだ。咲耶も、僕も。救われることなど――永遠に、ない。

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