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白百合の章66(1)
*
詠の結界が破られたことは、鈴懸も気付いていた。空気が震える感覚、何者かが屋敷へ侵入した感覚。結界が破られたときの独特のイヤな感じ。結界を張った本人でなくても肌で感じる、屋敷へ起こった“異変”。鈴懸は窓を開けて、共に部屋に居た織を引っ張りだそうと手を差し出す。
「……、見張りが」
窓の外から見えた屋敷の警備の者が、地面に突っ伏して倒れていた。見たところ外傷はない。妖術か何かで眠らされているのかもしれない。いよいよ、何者かが屋敷へ侵入してきたのだと、鈴懸は焦る。
「出るぞ、織。きっと吾亦紅だ」
「うん……!」
鈴懸は織の手を掴むと、ぐいっと一気に抱き上げた。そして、窓から飛び降りようとする。
そのとき、ガキン、とけたたましい金属音が耳をつんざいた。ギョッとして二人が音がしたほうを見遣れば、部屋の扉の鍵が破壊されている。ドアノブがゴト、と落ちて、ゆっくりと扉が開いた。
「おっと、お久しぶり。逃げるところかな? 勘がいいね」
「……吾亦紅か!」
扉から現れたのは、やはり吾亦紅。
吾亦紅は刀の峰で肩をとんとんと叩きながら、ニタリと笑う。
「ん――あれ、……貴方は」
「……おまえ」
鈴懸と吾亦紅は顔を合わせるなり、瞠目して動きを止める。
二人が出会うのは――三度目。だが、鈴懸がこの屋敷へ来てからは初めてだ。
「……織のところには鈴懸という神がいるとは聞いていたけれど、まさか貴方が鈴懸?」
「ああ、そうだが……おまえが吾亦紅か」
「……」
吾亦紅は鈴懸の正体を知るなり、眉をひそめた。ぐ、と刀を握りしめて、苛立ったように口元を歪ませたかと思えば……「ふ、ふふふ」と嗤いだす。
突然嗤いだした吾亦紅に、鈴懸は動揺するしかない。
「何が可笑しい」
「いや……ケッサクだと思いましてね。奇跡を叶える竜神が、まさか咲耶のもとに! あの悪逆非道の女のもとに、なぜ貴方が! いったいどういう因果なのかと!」
「……おまえが何を言いたいのかはわからないが、俺は咲耶じゃなくて織の側にいたくてここにいる」
「変わらないよ、咲耶の魂のもとに貴方がいるという事実は。……まあいい。僕は貴方には手を出したくないんだけどね――」
吾亦紅がするりと刀の切っ先を鈴懸に向けた。
「貴方が起こす奇跡と、僕の憎しみ……どちらが勝るか勝負といこうじゃないか」
「――ッ」
ゾワ、と鈴懸の全身に寒気が走る。鈴懸は脇目もふらず窓の外に出て、バルコニーから飛び降りた。
吾亦紅はそれを追うように、バルコニーの柵へ足を乗せる。そして勢いよく蹴って、宙を落ちる鈴懸と織へ追いついた。
「申し訳ない、竜神様……二人諸共ここで死ね!」
「……ッ」
空中では攻撃をよけられない。鈴懸は織をかばうように、織をぎゅっと抱きしめた。吾亦紅が刀を振り下ろすと同時に、織が「鈴懸!」と叫ぶ。
「何、」
吾亦紅の刀は空を切る。鈴懸にも織にも当たらなかった。
いつの間にか鈴懸と織が、吾亦紅から離れた場所にいたのである。
「転移……いや、この感覚は……」
吾亦紅から逃れた鈴懸は自らの身に何が起こったのか理解しておらず、混乱していた。しかし、すぐに気付く。それが自らの力であると。
少し前に――木に登れない織を、木の上へ誘ったときと同じ。祈りを叶える力が、転移の形で現れたのだ。
神の力が戻ってきている……鈴懸はそれを実感する。ああ、そういえば、織に名前を呼ばれた瞬間に――力がみなぎるような感覚がしたのだ。
それでも、この力は人を傷つけることはできない。吾亦紅に攻撃はできない。彼に対抗する術にはならない。ただ逃げることしかできなくて、それはいつ限界がくるかわからない。
「ハアッ……ハアッ……」
「鈴懸……」
「大丈夫だ、織のことは絶対に……」
しばらく吾亦紅から逃げることはできたが、鈴懸も体力の限界が来てしまった。吾亦紅の俊足から逃げるきることはできずに、とうとう追いつかれてしまう。
「ハァッ……クソ、」
「貴方の力も限界のようですね、ははは……」
「おまえは一体何を……!」
「何って……ただ、思っただけですよ。なぜ咲耶が救われて、なぜ僕は救われないのかと」
「あ……?」
吾亦紅がジロリと鈴懸を睨む。
そう――吾亦紅にとって、鈴懸が織……いや、咲耶の側にいたことが許せなかった。
吾亦紅にとって咲耶は、許し難き女。何度許そうと思っても、どんなに許そうと思っても、許すことができなかった女だ。そんな女が――自分を差し置いて救われようとしている。その事実が許せない。
自分が何をしたというのか。なぜ、こんなに辛い目にあわなければいけないのか。なぜ、復讐すらも赦されないのか。憎悪が募るばかり。ただ、憎悪が募るばかり。
「咲耶に奇跡など起こらない……ここで僕に殺されて、永遠に地獄のような苦しみを味わえ! 貴様が何度生まれ変わっても、僕が殺し続けてやる!」
「吾亦紅……!」
「竜神……貴方もだ。悪人を救う神があるか。僕のことは救わないのに」
「吾亦紅、俺はあのとき言ったはずだ……! 俺は、おまえにも手を差し伸べる。おまえ自身が立ち上がれるように……! おまえ自身が願わなければ、おまえは救われない!」
「願ったところでどう救うっていうんだよ! 僕はすべてを失った、何もない……! ただ、咲耶への復讐心だけがある! それを叶えてくれよ、僕には咲耶を殺すしかないんだよ!」
「そんなことはない、おまえには――!」
吾亦紅は鈴懸の言葉を遮るようにして刀を振り上げた。そして、勢いよく鈴懸に斬りかかる。
「……っ」
もう、だめだ――鈴懸はそう思って思わず目を瞑ったが……一向に体に痛みは走らない。恐る恐るまぶたをあけると、そこには……
「……白百合」
鈴懸の前に、白百合が立っていた。鈴懸は突然現れた白百合の背中に、思わずその名を呼ぶことしかできない。
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