223 / 225
白百合の章66(2)
吾亦紅も白百合を斬ることはできなかったようで、寸でのところで手を止めた。切っ先が白百合まであと少しで届くというところで、刃は止まる。
吾亦紅はじろりと白百合をにらみつけた。
「……白百合、きみも僕に逆らうのか」
白百合はジッと吾亦紅を見つめて立つ。
彼女の後ろでは、鈴懸と織――そして詠が白百合を見守っていた。
「ここで貴様が織を斬ったらどうなる」
「ん? ああ……織も、咲耶も……僕の手で殺されたことによって、輪廻から外れる。死んでも転生しても救われない……永遠の地獄に堕ちるだろうね」
「そうだろうな、……其方に輪廻を乱された魂は救われなくなってしまう。咲耶が死んでもなお呪われ続けているのは、櫨が咲耶の命を救ったからであろう。だから……貴様がまた咲耶の輪廻を乱せば、再び咲耶は呪われる」
「ふん……そうだね。咲耶が呪われているのは、櫨のバカが咲耶を輪廻から弾いたから。櫨もいい仕事をした……ハハッ」
「……」
櫨、の名が出た瞬間に吾亦紅は愉しそうに笑った。その様子が不気味だったので、白百合は思わず後ずさってしまう。
「な、何を嗤っておる……」
「いいや、べつに」
白百合は、織と鈴懸、そして詠に「退がれ」と声をかけた。白百合が三人を護りきるのは難しいだろうが、何が何でも織を殺されるわけにはいかない。織も、咲耶も、白百合にとっては大切な人なのだ。
しかし、吾亦紅はすぐに斬りかかりはしなかった。何かを思い出すように視線を漂わせては、ふ、と笑う。
「櫨、か」
そう、櫨が咲耶を護ったから。……櫨は咲耶を護ったから死んだ。本当にバカなことをした、彼は。くだらな。もうどうでもいいよ、あんなやつのこと。僕も死ぬんだし。
……ああ、そういえば僕たちが死んだらどこへゆくんだろう。人間と同じように輪廻を巡れるのだろうか。
まあ……きっと、乱れた輪廻を巡ることになるんだろうけれど……。それでも、生まれ変わった先でまた櫨に会えたら……
「吾亦紅……お主、櫨とは……」
「……それはきみに関係のある話なのかい」
「ない、が。……お主が懐かしそうな顔をするから」
「そう。僕は顔にでやすいのかな。自覚はなかったけど。……櫨は、僕の恋人だったんだよ。それが何か?」
白百合が吾亦紅の言葉を聞いて息を呑む。
櫨――彼を、白百合も知っていた。気のいい男だった。そして……咲耶のかざぐるまを受け取っていた。
吾亦紅が咲耶を恨む理由を察した白百合は、つい黙り込んでしまった。
しかし、それでも吾亦紅に咲耶の魂を壊させるわけにはいかない。咲耶がどれほど罪深かろうと、白百合にとって咲耶は大切な人だった。
「話はもういいかな。白百合……そこをどけ。そうでなければ、きみも殺す」
「どかぬ。其方が手を引くがよい。織も、咲耶も――絶対に傷つけさせぬ」
「……自分を犠牲にしてまで護るつもりか。何がきみをそうさせる? あんな女に、どうして」
どうして?
そんなわかりきったことを何故問う。
白百合はキッと吾亦紅を睨んで叫ぶ。
「咲耶が妾の友人だからだ……大切な存在だったのだ! だから、これ以上傷つけさせぬ! 絶対に、ここはどかぬ!」
吾亦紅は白百合の言葉を理解できなくて、顔をゆがめた。
あんな女に護る価値などあるものか。そこまでして、どうして。わからない、わからない!
「たしかに咲耶はたくさんの罪を重ねたが、妾にとっては大事な友人だったのだ!」
「どうしてそこまで、あの女を……!」
「咲耶は! たくさんの時を共に過ごした、大事な大事な友達なのだ!」
「……っ、」
――ふと、思い出す。白百合と咲耶が笑顔で語らっていたときのことを。
『ふふ、私もっと花の名前を知りたいわ』
『信じているわ。いつまでも、信じている』
「……っ」
白百合の前では、ただの少女だった咲耶。
たしかに彼女は、白百合とささやかで愛おしい日々を重ねていたのだろう。小さな花を摘んで、嬉しそうに笑っていた彼女は。
「……それが何だ、あの女は……」
そんな彼女と白百合の日々に――思わず櫨との思い出を回想してしまう。
楽しかった日々。悲しかった思い出。たくさんの幸せを彼と重ねた。櫨の笑顔を思い出す。
たくさんの日々を、共に過ごした。
「……僕には、関係ないっ」
「わからぬのか! お主だって櫨を愛していたのだろう。妾も、咲耶を愛していたのだ……だから傷つけさせたくない!」
「黙れッ!」
知らない。咲耶のことなど知らない。
それなのに、自分と重ねてしまう。
櫨を失った悲しみを知っている。愛する人を失ったときの悲しみを知っている。櫨がどんな想いで自分を愛してくれていたのかを知っている。何気ないひとときを笑いながら過ごす、一人の大切な人として。
――できない。刀を握る手が、動かない。
大切な人を愛する、彼女を……殺せない。
「……っ、咲耶は……僕たちを壊した……壊したんだぞ、……それなのに咲耶だけが救われるなんてこと、あってたまるか! どんな想いで僕がここにいると思っている!」
「吾亦紅っ……」
「そこをどいてくれ、白百合……僕は、咲耶を殺すんだ」
白百合はジッと吾亦紅を見つめた。
涙に濡れた彼の瞳が、悲しい。
「……そうか。ならば、妾を殺してゆくがよい。妾は抵抗せぬ」
「……ッ」
吾亦紅が刀をグッと握る。その手は……カタカタと震えていた。
「どいてくれ、白百合……」
「どかぬ」
「……頼むから……」
――斬れなかった。
白百合と咲耶の間にあった愛を、壊せなかった。
「……くそ、」
吾亦紅はだらりと腕をぶら下げる。
自分自身が、憎たらしい。咲耶を殺すためだけに生きてきたのに。櫨の復讐のためにここまできたのに。結局……何もできなかった。
櫨に教えられた愛が、吾亦紅の復讐を妨げる。
「なんで……」
……どうして、人って人を愛するのだろう。
――そんな感情がなければ、ずっと楽に生きられるのに。
「櫨のことなんて、愛することがなければ……」
悲しそうにうつむく吾亦紅、白百合は問う。
「……吾亦紅、其方は……櫨を愛したことを後悔しているのか……?」
「……しているさ。アイツを愛することがなければ、僕はこんな想いを味わうことはなかった」
吾亦紅が白百合たちに背を向ける。刀をずるずると引きずって、吾亦紅はゆっくりと歩き出した。
そして、白百合たちに聞こえない声で呟く。
「……それでも、今でも愛しているよ」
ともだちにシェアしよう!