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鈴懸の章4

「……は、」  一瞬、気を失った。  箱馬車が破壊され、身を投げ出され、その瞬間気を遣ってしまったが、織はすぐに意識を取り戻した。首を後ろに回し、背後に忍び寄る悍ましい空気の正体を――その目で、見る。 「……ッ、」  そこにいたのは、巨大な化け物だった。全身の皮膚がどろどろと溶け出している、なんとも醜い化け物。その化け物と目が合った瞬間、織は身体をふらつかせながらも立ち上がり、勢いよく走り出す。 ――一緒に馬車に乗っていた者たちは、どうしたのだろうか。詠は? 伊知は? 両親は? 不安だらけになりながらも、織は箱馬車から遠く離れたところへ行こうと走り続ける。自分が食われたくないのもあるが、あの化け物の狙いが自分にあるのだから、自分さえ別の場所に行けば他の者は助かる……そう思ったからだ。  山道を外れた、慣れない獣道。新品の革靴で走れば足がもつれそうになって、いつ足をとられてしまうかという恐怖が襲ってくる。それでも、立ち止まれば喰われてしまう。織は走った。ひたすらに、走った。自分がどこにむかっているのかもわからず、このまま迷って帰れなくなってしまうのではという不安すらも忘れて、とにかく走った。 「……!」  しばらく走っていると、木々の間に目立つ、赤い鳥居が見えてきた。神社、だろうか。もしかしたら神様が助けてくれたりはしないだろうか、そんな希望を抱いて、織は飛び込むようにして神社の中に入っていく。神社に入った瞬間、織は安心してしまってがくりと崩れ落ちるように座り込んでしまった。  その神社は――非常に、古い神社だった。鳥居も、本殿も、半分腐っていて今にも崩れてしまいそう。いたるところに苔が生えていて、隅のほうではムカデが這っている。この神社に、神などいるのだろうか……そんな不安を織が覚えていると――化け物が、追いついてくる。鳥居の前までやってきて――そして、いともたやすく中に入ってきてしまった。 「……そんな、」  やはり、この古く寂れた神社には神などいないのだろうか。いや、もともと神など存在しないのだろうか。いずれにせよ、この状況はまずい。体から力が抜けてしまっていてもう立ち上がることができないうえに、ここまで近づかれてしまってはもう逃げ切ることなどできない。  殺されるのか。この、醜い化け物に喰われてしまうのか。いや――そんな、恐ろしい死に方など、したくない。 (――誰か……神様、助けてください……!)  何も、できなかった。居もしない神様に、祈ることしかできなかった。  化け物は、じりじりと近づいてくる。もう、絶望しか見えてこない状況のなか、織は目を閉じて、ただ祈る。きっと、神様が助けてくれる……そんな未来を、頭の中に浮かべていた。 「――はぁ、やれやれ、誰だ祈っているのは……おまえか?」 「え……?」  そうしていると……ふと、声が聞こえてきた。あのどろどろの化け物からは発せられるはずのない、凛とした美しい声。ハッとして織が目を開けると――そこには、 「……神様」 「なんだ、狐につままれたような顔しやがる。おまえが祈ったんだろう。俺は鈴懸(すずかけ)、この神社に祀られていた、竜神だ」  見たこともない美丈夫、どこかきらきらとした粒子に包まれた淡く輝く体、明らかに人間ではない――神様が、立っていた。鈴懸と名乗った彼は、くるりと振り向くと、その手の先から焔を迸らせ、化け物を一瞬にして砕いてしまう。  織は、そんな様子を唖然として見つめていた。腰は抜けて立ち上がることができない。焔による熱風ではためく鈴懸の着物は目を奪われる程に美しく、思わずため息をつきたくなる。 「よく……こんな辺鄙なところにある神社を探し出せたな」 「え……」  織が呆然としていれば、鈴懸は振り向いて声をかけてくる。瞳の色は、宝石のような深い赤。明らかな異形の瞳から、織は目を離せない。 「誰も、こんなところにある神社に足を運ばない。人間はみんな、ここの存在を忘れていたのかと思った。よく来たな、人間。おまえ、名前はなんという」 「……え、いや……俺は、偶々迷い込んだだけで……あ、えっと……名前は、織、です。碓氷織」 「へえ……識。ここに来た経緯はまあ、どうでもいいとしよう。おまえ、祈ったな。俺の存在を信じて、祈っただろう」 「はあ……祈り、ましたけど……」  ああ、お礼を言いたいのにその機会を逃してしまった。次々と言葉をかけてくる鈴懸に、識は目が回りそうになった。  鈴懸はじっと識を見つめ、そして識の目の前に腰を下ろす。手を伸ばし、識の両頬をその手のひらで包むと……にっと笑った。それはもう、神様とは思えないような、凶悪な笑顔で。 「――おまえ、俺の寄り代になれ」 「……は?」 「俺は俺の存在を信仰する人間がいないと、現界できないんだ。生きていられない。おまえが 「偶々この神社に来た」って言ったように、今後この神社に人が来ることはほぼないだろう。だから、俺はおまえに憑く。俺の存在を信仰できる、おまえに」 「じょっ……冗談じゃない!」  鈴懸のとんでもない発言に、思わず識は叫んでしまった。神様にずっと側にいられたなら、もしかしたら妖怪に襲われても死ぬことはないかもしれない。でも、四六時中この男に付きまとわれるなんて、堪ったものではない。人が苦手な識にとって、ずっと他人に側にいられるなど、苦痛でしかない。しかも……この神様、少し話しただけでも感じ取れてしまうが……かなりの、自分勝手だ。助けてもらった恩もあるが、識は鈴懸に対して早速苦手意識を覚えてしまっていた。 「お、俺に憑く、なんて……許可しないからな! 助けてくれてありがとう、俺と貴方の関係はもうこれで終わりだ!」 「――織様! 織さま……!」 「……え?」  近づいてくる鈴懸を押し返していると、どこからか声が聞こえてきた。声の聞こえるほうへ目を遣れば……遠くから、詠が駆けてくる。詠は美しかった着物をぼろぼろにして、履物はどこへやったのか裸足で走っていて、汗だくで識のもとへ走り寄ってきた。 「織様……よかった、……よかった、ご無事だったのですね、……織さま……」 「えっ……詠、おまえ……」  詠は鈴懸をすり抜け、織に抱きついてくる。――どうやら、鈴懸の存在に、気づいていない。見えてもいない。  こんなにボロボロになるまで自分を探していたのかと、そして鈴懸は自分以外には見えていないのかと、二つの驚きのせいで、織は言葉がでてこなかった。 「ごめんなさい……私が、不甲斐ないばかりに識様に危険な目に合わせてしまいました……本当にごめんなさい……」 「いや……詠は、悪くない……俺はもう、大丈夫だから……泣かないで」  泣き縋る詠の頭を、織は撫でる。しかし、意識は完全に鈴懸に向いていた。自分たちをじっと見下ろしてくる鈴懸は……簡単には、振り切れそうに、ない。

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