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戯の章9

 烏が、鳴き始める。空が紅に染まる。  日が落ち始めた、逢魔が時。織たちはようやく安住の村にたどり着いた。 「……、」  自分の屋敷からほとんど外に出たことのなかった織。ましてや街の外など出たことがない。文明開化が進み赤レンガの映える景色を「外の世界」と思っていた織は、この安住の村の風景に驚いた。  小さな民家、そして家畜。不思議な自然の匂いがする。文明など一切栄えていない、田舎の村。ここに本当に人が住んでいるのだろうかと、織は疑ってかかってしまった。 「こういうところは初めてか?」 「……ああ」 「ふふん、おまえはお坊ちゃんだからな。まあ、そうビビるなよ」  入り口から奥に進もうとしない織の前を、鈴懸が先導する。織は慌てて、追いかけるようにして鈴懸のあとをついていった。 「……、」  少し歩けば、すぐに人を発見できた。小さな村であるため、一人みつければまた一人と現れる。井戸で水汲みをしている女性、家畜の小屋を掃除している老人、織のみたことのない類の人たちが、たくさん。  そして、彼らは皆、不思議そうな顔で織を見てきた。小さな村であるが故に、余所者が気になってしまうらしい。 「戯のこと、聞いてきたらどうだ。俺はあの人たちに見えてないから話せないし」 「あ、そっか……で、でも大丈夫か、彼らに言葉、通じるのか……?」 「ビビりすぎかおまえ。そうおまえの街から離れてないところにある村だ、多少の訛りはあれどそんなにおまえと話してる言葉はかわんねえよ」  すっかり鈴懸に任せる気になっていた織は、自分から話しかけにいかねばならないと気付いた瞬間、尻込みした。目に見えて警戒されている相手に声をかけるというのもそうだし、織は元々人見知りだ。この村の人々に話しかけるというのは、織にとってものすごく勇気のいる行為であった。  しかし、ばんと鈴懸に背中を叩かれて促される。実際にここで立ち止まっていても仕方がないのだからと、織も腹を括って一番近くにいた女性に話しかけた。 「すみません、」  歳はおそらく織とほぼ同じの、彼女。どうやら団子屋の娘のようで、店の前の長椅子を拭いている。織に声をかけられるときょとんとした顔をして、首をかしげた。 「……この村の人じゃないですよね? なんでわざわざこんな危ないところに?」 「え、危ない?」 「知りませんか、この村、妖怪が現れるんですよ。今まで怪我をさせられた人とかはいないけれど……いつ機嫌を損ねて襲ってくるか……」  女性は織を心配するような目で見つめてくる。彼女の言っている「妖怪」とは、おそらく戯のことだろう。聞いていた情報によればそこまで危険な妖怪ではなさそうだったが、彼女の表情からはそう思えなかった。 「その妖怪、どこにいるんですか?」 「あそこの細い道をずっと行ったところにある、古い小屋に住み着いているみたいです。本当に恐ろしいので近づかないほうがいいですよ」 「……恐ろしいんですか?」 「だって……まるで鬼のような顔をした大男なんです。私も見たときがあるのですが、初めて見た時はもう心臓が止まるかと思いました。……本当に気をつけてください。とくに貴方は、危ないかもしれません」 「え、なんでです?」  彼女は織を観察するように上から下まで見つめて、ますますその表情を曇らせる。彼女は織が妖怪に襲われる体質であるなどとは知らないはずだから、なぜそんなことを言ったのかと織は驚いてしまった。 「その妖怪は、綺麗な人が好きなんです。ごめんなさい、男性の方にこんなこと言って申し訳ないけれど、貴方……とても美人だから」  彼女は申し訳無さそうに、困ったような顔をしてそんなことを言ってきた。からかっているというわけでもなさそうで、織は戸惑ってしまう。「美人」なんて言われたのは初めてだし、そもそもその言葉は彼女が言うように男に使う言葉にも思えなかったから、喜ぶこともできない。上手い言葉を返すこともできず織が固まっていると、彼女がそっと声を落として織に言う。 「ここだけの話、その妖怪は美人に破廉恥なことをするのが大好きみたいなんです。助平なんですよ。貴方は男性だからきっと大丈夫だとは思いますけど、一応用心したほうがいいですよ」  えっ、と織が声をあげたとき、店の中から彼女を呼ぶ声が聞こえてきた。彼女は返事をすると、慌てて掃除用具を片付け始める。そして、「夜は外にでないほうがいいですよ」と言い残して、女性は店の中に戻っていってしまった。  残された織は、ぽかんと彼女に教えてもらった古い小屋がある方角を見つめる。あっさりと情報は得られたが、その情報を聞いてしまった後だと行こうという気になれない。助平な鬼の顔をした大男、なんて怖いにもほどがある。 「まあ、安心しろよ。俺様がついているし、怪我をさせられることはねえよ。まあ、破廉恥なことをされてるのは傍観するかもしれないが」 「なっ……た、助けろよ!」  鈴懸は飄々として、織の背中を押した。本当にこの神様は自分を守る気があるのだろうかと、織は鈴懸を訝しげに見上げる。しかし、鈴懸はそんな織の視線なんてなんのその。  ともかく、このままここで立ち止まっていても何も始まらない。信じるしかない鈴懸を信じて、織はゆっくりと教えてもらった小屋に向かって歩き出した。

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