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戯の章10

 教えてもらった細い道を抜けていくと、古い小屋がひっそりと建っていた。村の中心部からは離れた、用途不明の小屋。周囲に他の建物はなく、鬱蒼と緑が茂っている。 「……、」 「どうした、織」  小屋を調べようと、歩を進めたとき。織がぐらりと体をふらつかせた。鈴懸に支えられて倒れることはなかったが、その顔は血の気が引いたように蒼い。 「……おい、しっかりしろ、織」  織は突如として気分が悪くなってしまった。鐘が鳴っているようにがんがんと頭が痛い。内臓がうねっているように、吐き気がする。そして……強烈な、胸の締め付け。言いようのない苦しさ、寂しさ、自分では理解できないそれらの感情が一気にこみ上げてきて、涙が溢れてくる。視界もぐるぐると回り始めて、立っているのが辛くなって――織はついに、座り込んでしまった。  鈴懸も流石に心配して、織に寄り添う。少しでも楽になりたくて織は草の生い茂る地面の上で横になろうとした――そのときだ。朦朧とする意識のなか、歪む視界。ぼうぼうと生える草のなか、青い匂いのするほどの緑のなかで、異質な紅を見つけた。 「――かざぐるま」 「……、」  ぼそり、織が呟く。鈴懸が織の視線を追えばそこには――からからと、風に逆らって廻る紅いかざぐるまが、淋しく刺さっていた。  空気が、重い。肺の中に鉛を流し込まれたかのように、呼吸がしづらい。肌を空気が撫ぜれば泥につかったかのような不快感を覚える。  おかしい。このかざぐるまは、おかしい。鈴懸は突然変化した空気に畏れを抱いた。緑のなかにぽっかりと立っている紅いかざぐるま。色だけではなく、纏う世界そのものが違うのではないか。このかざぐるまは黄泉に通じるものなのでは――そんなことを思ってしまう。 「あ、……」 「織?」 「あ、あぁ、あ、」  何か化け物でも現れるのではないか、そう思って周囲に注意を向けていた鈴懸の腕の中で、織が唸り始めた。ハッとして鈴懸がその表情を確認すれば――その目に、この世を映していない。黒目が忙しなく動き、全身の肌を粟立たせ、がちがちと震えている。 「おい、おい――織!」 「……え、」  明らかに正常ではない。織の身の危険を感じた鈴懸が叫ぶようにして織に呼びかければ、弾かれたように織は意識を取り戻して、その瞳にしっかりと鈴懸を映した。 「……あれ、今、俺……」 「大丈夫か……どうしたんだ急に」 「え、いや……わからない。自分でも、よく、わからない……」  織は自分の身に起こった出来事に呆然としていた。鈴懸はそんな織の様子を見て、首をかしげる。  てっきり、亡霊かなにかに取り憑かれたのかと思ったが、織は自分が今「おかしかった」ことを自覚しているようである。憑依された者は通常、意識までを乗っ取られるため、自分に何かがあったということはわからない。だから、織は取り憑かれたというわけではなさそうだ……鈴懸はそう思った。 「なんだか急に……悲しくなったというか、……怖くなったというか……」 「……何がそんなに悲しくなったり怖くなったりしたんだ」 「……知らない。それが、わからない」 「……」  一体織に何があったのだろう。この紅いかざぐるまが関係していることは間違いないが――……  鈴懸が頭を悩ませていると、ぴくりと織が身じろぐ。また織の身に何かが起こるのかと鈴懸は身構えたが――そうではないようだ。織がぎょっとした顔をして、ある一点を凝視している。ずっと、上の方。鈴懸もその視線を追えば――「それ」は、いた。 「――なんだ、おまえたち。ここで何をしている」  ――鬼のような顔をした、大男。聞いていた特徴に当てはまる、明らかに人間ではない異形。  戯だ。戯が、現れたのだ。 「……戯か」  大妖怪と言われるほどのことはある。戯から漂う妖気は強烈なものだった。油断してはいけないと鈴懸は身構えるが……なにやら織の様子が、おかしい。  怯えるわけでもなく、ぼんやりと、戯を見上げている。 「……おまえ、」  そして、戯も。村の人間ではない部外者が突然自分の住処に現れたというのに、その顔に敵意は表れていなかった。驚いたように大きな瞳を見開いているものだから、目玉が転げ落ちそうだ。  織と、戯の間の不思議な空気。一体なにが起こっているのか理解できなかった鈴懸は、戸惑うばかり。しかし……次の発言に、鈴懸はハッとする。 「咲耶、咲耶じゃないか……! おまえ、今までどこに行っていたんだ……!」  ――戯は、織のことを咲耶だと思い込んでいるらしい。妖怪にとって、人間の容姿はさほど重要ではない。大切なのは、魂。咲耶の魂を持つ織を、戯が咲耶であると勘違いするのは無理のない話である。 「……俺は、咲耶、じゃない」  では、織は? 鈴懸は織の身に起こっている現象について、答えを見出すことができなかった。一瞬、咲耶の亡霊にでも取り憑かれたのかと思ったが、意識ははっきりしているようである。何かに取り憑かれたわけでもなく、それでもいつもとは明らかに様子の違う織。原因がわからないのでは、鈴懸にもどうしようもできなかった。 「咲耶、ではないだと?」 「……よく、見ろよ。俺は男だし、全然違う人間だ」 「……咲耶はどうした。なぜ、違う人間が咲耶の魂を持っている」 「……咲耶は亡くなった。俺は、咲耶の生まれ変わりらしい」  淡々と、戯に事実を話す織。一体どうなるのかとひやひやとしながら見守っていた鈴懸だが、ひとつ、違和感に気付く。織が、ずっと鈴懸に寄り添うようにして密着してきている。昨夜、布団のなかで肌と肌が触れ合うことを拒んできた織が、自らこうしてくっついてきているのだ。やはり、織はいつもとは違う。たしかに自我はあるようだが、どこかが「織」ではない。  そんな織を見下ろして、戯はじっと黙り込んでいた。想い人であった咲耶の死を突然知らされた戯は、一体何を思っているのだろう。そう思って、鈴懸はごくりと固唾を呑んだ。 「……そう、か。ずっと、咲耶が姿を現さないからどうしたのかと思ったら……死んだのか」 「……はい」 「咲耶が全然俺の前に顔を見せてくれないから、俺は彼女への想いを抑えきれずに色んな女に悪戯をしては気を紛らわしていたっていうのに。ああ、死んだのか、そうか、死んだのか」  激情するだろうか、暴れるだろうか……鈴懸はそんな最悪の事態を想定してたが、そうではなかった。戯はその目からぼろぼろと大粒の涙を流して、がくりと膝から崩れ落ちたのだ。わあわあと子供のように泣いて、しかし大きな体から発せられる泣き声は轟々としていて雷のようで。彼の悲しみはまるで自然が嘆いているようで、それほどに大きなものだった。  しばらく、戯は泣いていた。地響きがなっているのではと錯覚を覚えるような泣き声に鈴懸は正直なところ辟易としていたが、さすがにそれは黙っていた。 「そうだ、咲耶は亡くなったんだ。だから、もう彼女のことを想うのはやめろ。そうしないと織が、」 「ああ、死んだのか、咲耶、死んだのか」 「……」  織が妖怪に襲われる事態を解消するためには、大妖怪たちの咲耶への想いを鎮めねばならない。咲耶の死も伝えたことだし、と鈴懸が戯を説得にかかったが……どうやら聞く耳を持たないようだ。うわ言のように咲耶の名を呼び続けている。  どうしたものだろう、鈴懸が悩み始めたときだ。ゆらりと戯が起き上がり、涙に濡れた瞳で織の顔を覗き込む。そして、言った。 「……そうだ、君は、咲耶の魂を持っているのだろう。ああ……匂いも彼女と一緒だ、白い肌、美しい瞳、何もかもが一緒。一度でいい、抱かせてくれないか、どうか俺の悲しみを鎮めてくれ」  は、と鈴懸は固まる。一瞬、戯の言っていることの意味がわからなかったが……ゆっくりとその言葉を咀嚼していき、呑み込んで、ギョッと瞠目した。 「ばっ、……馬鹿言うな! 抱く、なんておまえ正気で言ってるのか!」 「……いいよ」 「はぁ!?」  妖怪が人間を抱くなんて、と鈴懸が猛反対するが、その腕の中で織は小さく呟いた。「いいよ」と。そんな織の返事が信じられなくて、鈴懸はぐっと言葉に詰まったが、慌てたように織の肩を掴んで説得にかかる。 「おまえ……さっきからおかしいぞ! 冷静に考えろ、妖怪と交わるなんて、」 「だってそうしないと俺はいつまでも変われない。それに……戯、寂しそうだ」 「な、……」  織は目を細めて、戯を見上げてる。優しい、慈悲の眼差し。周囲の人々を突っぱねてきた織のものとは思えない。本当に今の織は、自我を保っているのだろうか。そもそもこのような妖怪に抱かれることをあっさり承諾するなんて普通ではない。  今の織をどんなに説得したところで、彼は意見を変えないだろう。それに戯と交わることが織を救うことに繋がるのだから、これを止めるというわけにもいかない。しかし―― 「落ち着いて考えたらどうだ。おまえと織の体格差をよく見てみろ。おまえみたいな図体がでかい奴に抱かれたら織の体が壊れるだろ」  単純な問題がここにある。戯の体は、織が受け入れるにはあまりにも大きい。そもそも織は誰かに抱かれたことなどない。ただでさえ受け入れることに慣れていないというのにこのような妖怪に抱かれたら、死んでしまう可能性だってある。  それは、鈴懸にとっても問題だ。織は唯一鈴懸の存在を認めている人間であるため、彼が死ねば鈴懸はまた現界できなくなってしまう。それは、阻止せねばならない。  しかし、織も戯も、鈴懸の反対を受け入れるつもりはなさそうだ。織は穏やかな顔をして戯を待っているし、戯はもう今にも織を抱きたいと興奮を露わにしている。どうしたものかと悩んだ末に、鈴懸は苦肉の策を打ち出した。正直、ものすごく気が乗らなかったが……致し方ない。 「……戯、俺の体を貸してやる。どうしても織を抱きたいなら、俺に取り憑いてやるんだな」

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