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水色の章9
「なあ、織」
「なに?」
「思ったんだけど、俺、あの妖怪に憑依されるのすっげー嫌なんだけど」
「……そんなに不気味な見た目なのか?」
「あれはちょっとキツイかなぁ」
ざくざくと草をかき分けて教えられた場所へ向かう。鈴懸の言葉に、織はいやなことを思い出してしまった。そうだ、妖怪の想いを鎮めるということは、鈴懸とまた交わるということだ。呉須の池について調べるのでいっぱいいっぱいになって忘れていた。……あれは何とも言えない気分になるからちょっと、いやだ。
「それを言ったらソレに抱かれるのは俺……」
「……お、なんだ、自分で抱かれるって言って恥ずかしくなったか」
「う、うるさい!」
「安心しろ、実際におまえを抱くのは俺様だ。おまえはただ可愛い声出してりゃいいんだよ」
「……うざ、」
鈴懸も、これからあの儀式をやるのだと思うと憂鬱だった。あの儀式の最中の織には、ことさら苛々とするからだ。
「……あ、」
しばらく歩いていくと、湿気っぽい臭いがした。土のような、草のような。秘境なんて言葉が似合う、静かな場所。そこにーーそれは、あった。
茫々と人の手の一切加わっていない草木のなかに、ぞっとするほどに深い青の池。いつか見た、ビードロの容れ物がこんな色だった。自然の中にこんな青があるのかという色をした池だった。
「ここに死体がたくさん沈んでるってか」
「……」
鈴懸が池を覗き込んで、ふーん、なんて言っている。織は鈴懸に少しだけ近づいて、真似して池を覗いてみた。
「……妖怪の気配は? あるのか?」
「あるな、すごいある」
「えっ、すごいある!? どこにいるの!?」
「池の中から感じるけど……姿がないな」
鈴懸の言葉を聞いて、織は怖気付く。いつ妖怪が現れてもおかしくない。怨念の塊のような妖怪なんて、油断したら殺される可能性もあるのだ。
「こうして覗いていたら引きずりこまれたり……あれ?」
おそるおそると池を覗いていた織。ふと、小さな水泡がふつふつと浮かんできていることに気付いた。今までなかったものだ。魚でもいるのかと思ったが、特に姿は見えない。
……なにか、嫌な予感がした。そして、悪寒が織の体を走り抜ける。
「……っ、」
まずい、そう思って咄嗟に織が後退したときだ。水泡がぶくぶくと大きくなってきてーーそして、水面が盛り上がる。ハッと鈴懸が反応し、すぐさま織の前に出ようとしたが……遅かった。
「ひっ……!」
池の水が柱状にのびていき、そしてそのまま織に襲いかかる。液体よりも固体に近いのか、はたまた液体とも固体とも呼べない不可思議な物体なのか定かではないが、水は織にまとわりつくと、そのまま織を持ち上げた。それはまるで、水でできた腕のようだった。
「――し、織!?」
「ちょっ、えっ、た、助け――ひっ」
ぎょっとした鈴懸は一瞬動きが鈍ってしまった。そしてその隙に――水は、さらに織を襲う。掴まれて身動きの取れない織の着物の隙間に液体がずるずると入り込み、胸にまとわりついた。そして、織の乳首を覆ってきゅうっと吸い上げる。
「んっ……!」
「どうした、大丈夫か、織!」
「あっ……は、はやく助けて、ってば……んんっ……」
ちゅう、ちゅう、と水はまるで赤子のように織の乳首を吸い続けた。一切の動きを封じられた織には身を捩る程度の抵抗しか許されない。乳首を液体に刺激されるというわけのわからない状況に悶えながらも、ただ鈴懸に助けを求めることしかできなかった。
「な、なんなんだよ、池の水全部が妖怪なのか!?」
織が何やら顔を赤らめ始めた辺りで、鈴懸はようやく助けねばと焦る。空中で織を捉える拳のような部分と池をつなぐ柱のような、腕らしき部分に向かって焔を放つ。水に向かって焔を放ったところで効くのだろうかと鈴懸はひやひやとしたが、効果はあったようだ。ぱしゃん、と水は弾けて織を捉えていた水も四散する。
捉えていた水が消えたことで、織は空中から地面に向かって急降下した。慌てて鈴懸が受け止めたが、織はぐったりとしてしまっている。
「お、おい……大丈夫か」
「う……なんだ、あの妖怪、」
池全体が妖怪なのだろうか。意思疎通が可能なのだろうか。用心しながら池を見つめていると、再び池の表面に水泡が浮かび上がってくる。また何か出てくるのかと構えたが……どうやら、違うようだ。
『――ごめんなさい、私の子どもが失礼なことをしました』
「えっ……?」
声が、聞こえる。誰もいないのに、声だけが聞こえてきたのである。
いったい、どこから。きょろきょろと辺りを見渡しても、声の主は見つからない。もしや、池の中から。鈴懸が池を見つめれば、また、声が聞こえてくる。
『私は水色。この呉須の池の化身でございます』
「……その池自体が、おまえってことか」
『そうです。私は貴方たちのように人の姿をとることができないのです』
声は、鈴の鳴るような美しい女の声。深い青のこの池の化身だ、と言われてなんとなく納得する。
「子どもって言ってたけど、さっき織を襲った奴がおまえの子どもなのか?」
『ええ、そうです。でも、私が産んだわけではありません。人間たちが捨てた赤子の霊を、私が親代わりに育てているのです』
「……へえ。でも、なんか霊っていうには見た目が人間離れしてたけど」
『……親に捨てられた悲しみ、憎しみ、そういったものを持った何人もの霊ですから。妖怪となってしまったのです』
「まあ、そうだろうと思ったけど」
鈴懸は一切の物怖じせず、水色と会話をしていた。さすがは竜神といったところだろうか、水色の正体を知ってもまったく驚く様子がない。対して織は、水色という妖怪の存在、そして赤子の霊が集まってできた妖怪というものにただただ畏怖の念を抱いていた。姿がはっきりと見えない分、今まで見てきた妖怪よりも恐ろしく感じたのだ。
しかしこの妖怪。白百合の話によれば咲耶と関わりのある妖怪だというが、どう関係あるのだろう。戯と違って水色は女性のようだし、咲耶に恋情を抱いているとも思えない。
「あ、あの……貴女は、咲耶という女性を知っていますか」
『……、ええ、もちろん。貴方の持っている魂ね』
「……俺は俺って認識しているんです? 妖怪は人間の顔の判別がつかないから魂が同じだとわからないって聞いたんですけど……」
『だって、女性と男性だと全然違うわ。貴方、おっぱいないでしょ』
「……え。そ、そりゃないですけど」
……おっぱい?
男性と女性の体の違いで最も分かりやすい部位の一つではあるが、いきなりおっぱいなんて言われて織は唖然としてしまった。そういえばここの妖怪、胸のことばかり気にしてないか。先ほどの赤子の妖怪も乳首を吸ってきたし……
『私の子どもたち、まだ赤ん坊だから……おっぱいが好きなの。咲耶さんはおっぱいが大きくてね、よく吸ってたわ』
「よ、よく吸ってた……」
『もう、彼女は亡くなったのでしょう? 困っているのです。子どもたちは、まだ彼女への想いを断ち切れていなくて……寂しくて寂しくて、どんどん悪霊へ近付いてゆく』
水色の声色は、徐々に哀しそうなものへとなってゆく。
咲耶と関係がある妖怪は、水色自身ではなくて水色と一緒に住まう赤子の霊だったらしい。母親に捨てられて、母性を求めている赤子の霊。体を持たない水色だけではその欲求を慰めることができず、赤子は過去に触れ合った咲耶を求めてしまっている。
『少しずつ、子どもたちの魂が濁っていくわ。感じるの、ああ、黒く黒く染まっていく……悲しみはいつか、呪いへと変わってしまう。呉須の池に近づくと祟られるって、人間たちが言っているでしょう? 私の子どもたちがしてしまったことなんです。もう、私だけでは抑えられない』
「……咲耶に触れられれば、いいんですか」
『え……?』
哀しそうな、母親の声。聞いているうちに、いつの間にか織の口から、そんな言葉がでてくる。
それに、鈴懸は驚いたような顔をした。
「……なに、やる気なの、おまえ」
「どうせやらなくちゃ俺の呪いも解けないし……やるために来たんだろ」
「……いや、おまえが水色とその子どものために体をはるのかと思ってびっくりしただけだ。おまえに限ってそれはないか」
あの儀式は、織にとってかなり辛いもののはず。それを織が自らやろうだなんて言うものだから、鈴懸は驚いてしまったのだ。それに今回の相手は戯とは違って負の感情の塊のような妖怪。それに抱かれて織はまともな精神を保っていられるのだろうか。
『触れる、とは……』
「……俺を、咲耶の代わりにしてください。きっと、貴女の子どもたちの想いも鎮まるはず――」
『……あ、』
鈴懸の心配をよそに、織は腹をくくったようである。一歩、前に歩み出た――そのときだ。
風が、吹く。池の周囲の草木を強く強く嬲り、そして――
「……かざぐるま」
茫々に生えていた草に隠れていた、かざぐるまが現れた。風に逆らって廻る、かざぐるま。青いこの地に、真っ赤なかざぐるまは美しく悍ましく、映える。
「――う、」
「……織!」
そして、かざぐるまが姿を現した刹那。ぐらりと織の体が崩れ落ちた。慌てて駆け寄った鈴懸により掛かるようにして、どしゃりと織はその場に座り込む。
あの時と同じ。戯のところにあったかざぐるまを目にしたときの織と、同じ。苦しそうに顔を歪め、冷や汗を流している。
くる。あの、織がまた――
「――織……?」
ぴん、と空気が張り詰めた。かざぐるまが現れた瞬間に感じた、空気の淀みが消える。ハッとして鈴懸が織の顔を覗くと。
「――どうぞ、水色。俺は……体は男だけど、咲耶の魂を持ってる。貴女の子どもを癒やすことができるかもしれない」
すうっと目を開いて、池を見定める織。自ら着物を脱いでいき、上半身をはだけさせる。
また、戯れの時のように。織は、たしかに織のはずなのにいつもとは違う彼になった。触れられることに恐怖を覚えることもなく、むしろ触れられることを望む――さみしがりやの彼に。
織の声を聞いてか。ぶくぶくと池に大量の水泡が浮かんできた。今までの比じゃない。とんでもない量の妖怪が、反応したのである。そしてそれと同時に、すさまじい負の念が辺りに立ち込めた。親に捨てられた赤子たちの悲しみ、……そして呪いへと変化する直前の、強烈な憎しみ。
「……ま、待て――触れるな! おまえら、そのまま織に触れるな!」
先ほどのように、巨大な水の柱が池から湧き出てきた。それはそのまま織に向かってきたが――鈴懸は咄嗟に織の前に躍り出て、叫ぶ。
「鈴懸……? どうして邪魔するの?」
「邪魔をしているわけじゃない……おまえも、後先見ないで軽率なこと言うなよ」
「……でも、」
池の妖怪たちの手を遮った鈴懸に、織は不満気な声をあげた。そんな彼に、鈴懸は思わず舌打ちを打つ。
この妖怪たちは、戯のときとは何もかもが違う。まず、その体。水でできたその体に長時間包まれ続ければ体温を奪われ、強くはない織は確実に体力を著しく消耗する。そして、その強力な呪念。寂しがりやらしい織が赤子たちの念に触れれば、取り込まれてしまう恐れがある。ここまで強力な念を持っている妖怪に精神が弱い者が触れると、心がやられてしまうのだ。
だから、この妖怪に直接織に触れさせるわけにはいかない。気が進まないが、戯のときのように鈴懸の体に憑依させてから行為に及ばなければ、織に危険をもたらしてしまう。
「織に触れたいなら、俺の体を介してにしろ。それが嫌だっていうなら、俺はおまえの前からどけないぞ」
気づけば、鈴懸はそう言っていた。今までみてきた妖怪のなかでも群を抜いて悍ましき妖怪。悲しみに歪んだ赤子の顔がぎっちりと表面についた、その容姿。見るだけで吐き気を催すような、強すぎる呪念。これが体内に入ってくるのだと思うと、身の毛がよだつ。
なんで、織のために自分はこんなことをしているのだろう。こんな醜い妖怪にこの体を貸すなんて、絶対にしたくない。鈴懸は自分の行動に驚いて、呆れてしまう。
「……鈴懸、」
「……勘違いするな、俺様のためだ。こいつに直接触れられておまえが死んだら俺様が困るんだよ。おまえにはこれからも俺様を讃えてもらわないとだからな!」
心配そうに見つめてくる織の視線を、はねのけた。苛々する。いつもと違う織にも、そんな彼を護ろうとしている自分にも。
不機嫌そうな顔をしながらも、鈴懸は妖怪に向かって腕を軽く広げる。「体を貸してやる」と。
池から出てきた妖怪が、戸惑ったように揺れる。しかし、すぐに。鈴懸に向かって動き出した。大量の水が、鈴懸に被さっていく。
「う……!?」
妖怪がはいってくる。その感覚は、やはり慣れない。慣れないが、戯のときとは違う、それはすぐにわかった。妖怪がどんどんなかへはいってくる、そのたびに胸の中がキリキリと痛み出す。強すぎる悲しみと憎しみが、鈴懸にも影響を及ぼしているのだ。
「……、」
そして。
やはり、鈴懸の意識は保たれたままだった。完全な憑依とはならなかった。体だけが妖怪に乗っ取られた状態。
「……咲耶、触れていい?」
妖怪に体を奪われた鈴懸が、織に微笑みかける。織は……そんな鈴懸をみて、ぼんやりと、微笑んだ。
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