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灼の章5
「ひゃっ――」
白百合から逃げて――詠は自分の部屋に向かって走っていた。もう、こんな顔で織の前に出られない、一人になりたい――そう思って。しかし、その途中で、誰かに思い切りぶつかり転倒してしまう。
「大丈夫か?」
「あっ……はい、すみません……」
声をかけられ、詠は顔をあげる。そうすればそこには――きらきらと輝く、美丈夫。
銀の髪、美しい紅の瞳。相当に高貴な人なのか、着ている着物も滅多にお目にかかれないような高価なものだ。詠は見たこともないその男に、ぎょっと息を呑んでしまう。もしかしたら、碓氷家の来客だろうか。だとしたら失礼なことをしてしまった、と。
「私の不注意で……申し訳ありませんでした。お怪我はないですか?」
「いや、俺の方こそ油断してた。てっきりおまえに俺は見えないと思ってたからな」
「……え?」
詠が立ち上がると、男は詠に怪我がないことを確かめて、踵を返し去っていってしまう。「見えない」とはどういうことだろうか……詠は首を傾げた。
まるで狐に包まれたような気分になって、詠は呆然としていた。そして、すぐに、ああ、早く部屋に戻ろう……そう思い立ったとき、後ろからぱたぱたと足音が聞こえてくる。振り向けば、そこには困ったような顔をしている織。
「どうされたんですか、織さま」
「あっ……詠。いや、鈴懸が勝手にどこかに行っちゃうから」
「……鈴懸さまが?」
どうやら織は鈴懸を探しているらしい。それを聞いて、詠はハッとする。
もしかして先程の男は……
「鈴懸さまって銀色の髪をした背の高い男性ですか?」
「あれ? 言ったことあったっけ?」
「いえ……先程、ここでぶつかって……あ、あっちにいきましたよ」
「えっ……あ、ああ、そうなんだ、ありがとう」
鈴懸だ。先程見た男が、鈴懸。それに気付いた詠はびっくりしてしまった。だって鈴懸の姿が見えたということは……彼の力がだいぶ戻ってきたということ。
駆け足気味に去っていく織の後ろ姿を見つめながら、詠は思い悩んでいた。
鈴懸の力が戻ってきたということは、織がより安全にいられるということ。喜ぶべきことなのに……なぜ、自分はこんなにも鬱屈としているのか。
「……私は、」
鈴懸の力が戻ってきている……それは、織のなかで彼の存在が大きくなっているということ。自分の居場所が、織のなかから消えてゆく。ああ、それが自分は嫌なのかと。
詠は心の中に渦巻く穢いものを見てしまったけれど、すぐに目を閉じた。
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