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第4話

「先生」  僕を呼ぶ声は、あれから四年も経ったというのに全く変わらない。学生服ではなく黒いスーツに身を包んだ彼はとても大人びていて、その姿に胸がざわつく。  すぐに駆け寄りたくなるのを抑え、意識してゆっくり口を開く。 「部外者は立ち入り禁止だよ」  ああ、もっと優しい言葉をかけられたらよかったのに。だけど、僕と彼はもう他人なのだ。それを忘れてはいけない。  思わず目を塞ぐと、くすりと笑う声が聞こえた。 「相変わらず真面目だなぁ。……よいしょっと」 「え?」  彼は何のためらいもなく、窓から部屋の中に入ってきた。なぜか手には鞄の他にスリッパまで持っている。学生の頃もこうやって外から入ってきたこともあったが、まさかまたそんな光景が見れるとは思わなかった。 「おい、ちょっと待てよ。何しに来たんだ」 「妹の卒業式だよ。卒業生の父兄なんだから、ここにいたって問題ないよね」  問題大有りだろ!と叫ぼうとして、だけど彼の笑顔を見て何も言えなくなってしまった。  あんな最低な別れ方をしたというのに、一体どういうことだ。どうして笑ってこの場所に来ることができる。  僕の疑問をよそに、彼は言葉を続けた。  「先生、まだ俺のこと好きでしょ?」 「!?」    予想外の言葉に、咄嗟に何の反応もできなかった。そんな僕に、彼はふわりと顔を綻ばせる。 「ちょくちょく妹に話聞いてるんだ。先生、まだ独身だよね。しかも何人かから告白されても、好きな人がいるからとか言って断ってるらしいし」 「な、なんでそんなこと……」  そこで妹の名前を言われ、ああと納得した。よくある苗字だから兄妹だなんて気付かなかったが、顔馴染みの生徒だった。今思うと、どうして気付かなかったのか不思議なくらいだ。 「違う! 好きな人がいるとか、全部断るための言い訳だ。お見合いは、失敗したけど、でも僕は――」 言葉はそれ以上続かなかった。彼の指が、優しく僕の唇に触れたから。  その指が離れ、ふと横を指さす。何だとそちらに目を向けると、机の上の絵が目に入りハッとする。 「あの絵、どうしてあんな所に置いてあるの?」 「あ、あれは……」  慌てて誤魔化そうとしたが、何も思い浮かばずに口をパクパクさせるだけになってしまった。  机の上には、額縁に入れられた絵が置いてある。それはあの日、彼が壁に向かって投げ捨てたものだった。衝撃でフレームは割れてしまったが中身は無事で、別のものに入れ替えたのだ。  A5サイズのその絵には、青い鳥が二羽描かれている。優しい色合いの水彩画。青空の下、黄色の花畑を舞う姿はとても楽しそうで、なんだか羨ましく感じた。彼が何を思ってこの絵を描き、そして卒業式の日に持っていたのかは分からない。だけど、捨ててしまうなんてできるはずがなかった。あれからずっと机の上に飾ってあり、もうすっかりそこにあるのが当たり前になっていた。  居た堪れなさに机に駆け寄って絵を伏せると、彼がその手を取った。そして止める間もなく絵を奪われる。  戸惑いながら振り向くと、彼は嬉しそうに目を細めていた。 「この鳥、ラブバードっていうんだよ。知ってた?」 「ラブバード……?」  そんな言葉聞いたことがない、と首を傾げると彼はにこりと微笑む。 「ラブバードは、一度カップルになると二度と他の鳥とは愛し合わないんだ。一生涯お互いに寄り添って助け合って、幸せに暮らすんだって。俺達もそんな関係になりたいなって思って卒業式の日に渡そうと思っててさ……、まさかのお別れ宣言にショックでつい投げ捨てちゃったけど」  さらりと告げる彼の姿に、胸が締め付けられた。ふと、あの時の彼の絶望に染まった顔が脳裏に蘇る。 「本当は野生にはほとんどいないけど、俺、ここから見える景色が好きでさ」  そう言って、彼は窓から外に目を向けた。   「あのタンポポの花畑を、自由に飛び回れたらなって、」 「やめろっ!」  思わず、彼の言葉を遮るように叫んでいた。ハッと顔を上げるが、彼は困ったように苦笑するだけだった。そのことに、胸の中に黒い靄が広がっていく。 「そんな昔話をしに来たのか? 僕達の関係はもう終わったんだ」  自由に花畑を舞う二羽の青い鳥。僕も、この鳥のようになりたかった。  けれどあの日、そんな未来は捨てたんだ。もうこれ以上、傷を抉るようなことはしたくない。 「君のことなんて、ついさっきまで忘れていた。その絵だって、捨てるのを忘れていただけだ!」  君を忘れたことなんて一度もない。この絵は僕の宝物だ。  そんな未練がましい本心は、決して悟られてはいけない。 「帰ってくれ」  冷たい言葉を吐きながら、ぎゅっと目を瞑る。また彼にあの時と同じ表情をさせてしまうのかと思うと、怖くて仕方がない。  お願いだから早く僕の前から消えてくれと願っていると、ふ、と息の漏れる音が聞こえた。 戸惑いながらも目を開けると、彼は変わらず笑みを浮かべていた。 「もう嘘は吐かなくていいよ」 「な、なんで……」 「お袋に全部聞いたんだ。たくさん傷つけてごめん。嘘を吐かせてごめん。俺、あの時本当にガキだった」  告げられたことに、言葉を失った。  彼は愛おしそうに絵を手のひらで撫でると、また机の上に置き直す。そしてこちらに向き直ると、突然大きな腕に抱きすくめられてしまう。 「やめろっ、放せ!」 抵抗しようと手に力を込めるが、全く敵わない。反対に、さらに強く抱きしめられることになってしまった。  息を吸い込むと懐かしい匂いが鼻腔を掠め、泣きたくなる。大好きな彼の匂い、大好きな彼の体温。ずっと忘れようとしていた感情が溢れ出しそうになり、どうすればいいのか分からない。  きっと彼は、実の母親に自分たちのことを非難されて酷く傷ついただろう。そして、僕があの日どうして別れを選んだのかも分ったはずだ。 「彼女の言うことは正しいよ。教師と教え子は許されない関係なんだ。君には、未来があるんだから」 「まだそんなこと言ってんの? あれから四年も経ったんだよ?」  抱きしめられていた体を解放されたかと思うと、両手で頬を挟まれた。まっすぐな瞳に射抜かれてドキリとする。 「よく見て。俺はもう、守られているだけの子供じゃない。これからは俺が先生のことを守るから、信じてついてきてよ」  自信満々に微笑む姿に心に震えが走った。次第に心臓がバクバクと煩く主張しだす。おろおろと目を泳がせていると、ちゅっと音を立てて額にキスを落とされて思わず飛び上がりそうになった。 「はは、先生は昔と変わらず可愛いなあ」 「ふざけるなっ。いい加減放せ!」  手を払うと呆気なく拘束は解かれるが、彼の余裕な表情に悔しくなる。あれから誰にも踏み込ませなかったスペースに簡単に入り込まれたことに、胸がざわついている。  あの日、彼のためを思って別れを選んだ。  その選択は、間違っていたのか……? 「本当はお袋から話聞いてすぐに会いに行きたかったんだけどさ……、そんなことしても困らせるだけだって気付いて、必死で堪えたんだよ。大学は主席で卒業したし、来月からは社会人だ。これでやっと堂々と先生に向き合える」  ふわりと笑みを浮かべる表情は、とても朗らかだった。その顔を見て、動揺していた心がだんだんと鎮まっていく。 「これでもちゃんと考えて、何度も親と話したんだよ。家業は真面目に継ぐから、他は好きにさせて欲しいって頼み込んで。好きな人と一緒にいたいってことを、ようやく認めてもらえたんだ。妹に関しては、ついさっきも早く迎えに行ってこいって背中押されたしさ」 「え……」  嬉しそうにそんなことを言ってのける彼に、思わず目を丸くしてしまう。そして、意味を理解した途端にじわじわ顔に熱が集まっていくのを感じた。  ああ、そうか。間違いではなかった。  あの時の悲しみや絶望は、全て今日に繋がっていたんだ。  君は、本当に……、 「タンポポみたいだな」 「何それ、どういう意味?」 「どんなに寒さが厳しくたって、踏み潰されたって、負けずに花を咲かせるだろ。君は本当に、」  強くて、綺麗だ――。  そう言うと彼はきょとんと目を丸くし、それから嬉しそうに破顔した。  あやす様に髪を撫でられ、その優しい指使いを意識した途端に鼻の奥がツンと痛くなる。みるみる内に視界が揺らいでいき、慌てて目頭を押さえるが溢れ出す水滴は抑えることができなかった。 「ごめん。……四年前、僕は、君を、酷く傷つけた。ごめっ、本当は、ずっと、謝りたくて……」 「いいよ、全部俺のためだったんだって、分かってるから」  彼は、僕の弱さごと受け入れてくれた。あきらめないで全力で僕を求めてくれた。  それが、どれだけ幸福なことか。    濡れた頬に手を伸ばされ、気恥ずかしさに顔を背けようとしたら次の瞬間には唇を塞がれていた。触れるだけのキスに、心臓がどくんと脈打つ。ダムが決壊してしまったように、後から後から涙が零れた。一緒に抑えていた感情も溢れ出す。 「すき、だ……」  伝えた言葉に、再びキスで返される。腕を背中に回して抱き寄せると、口づけが深くなる。 「やっと言ってくれた。俺も大好きだよ、――」  彼が僕の名を呼んだ。教師ではなく、一人の男の名を。  止まっていた時間が再び動き出す。  きっと今年のタンポポは、今までで一番美しく咲くだろう――

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