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第3話

 最終勧告は、何の前兆もなしに届いた。 「息子と別れてください」  突然僕のアパートに彼の母親がやって来て、挨拶もそこそこにそう頭を下げたのだ。   一瞬でサッと体の血の気が引いていったのが分かる。手先が冷たく震え、目の前が真っ暗になった。 「なんのことですか」  無駄な足掻きをしようとすると、彼女は鞄から写真を出してテーブルに置く。恐る恐るそれを見て、目を見張った。  それは、アパートの玄関先で彼に抱きしめられているものだった。合成などでないことは自分が一番分かっている。 「息子の部屋の引き出しに、隠すようにしてスケッチブックが入っていました。悪いとは思ったんですがそれを見て、もしかしたらと、出かけるときに後をつけたんです……」  その言葉に、もう誤魔化しようもないことを悟った。スケッチブックには僕の絵が描かれていたのだろう。  彼はよく僕のことを描きたがった。アパートに来た時に遊び半分で、ヌードや、行為の最中の局部だけを描いていたこともある。母親がどこまで見たのか、なんて怖くて確認することもできない。  迂闊だったと後悔しても今更遅い。  彼女の瞳には明らかに憎悪と侮蔑の色が浮かんでいて、改めて、自分達の関係が決して祝福されるものではないのだと現実を突きつけられる。  それでも一縷の望みをかけて、自分の想いを伝えた。  僕は真剣に彼のことを愛している、一生傍にいたいと思っている、と。  彼女は一瞬怯みはしたが、僕の話なんて初めから聞く気もなかったようで溜息を吐かれただけだった。彼女にとっては、大事な息子を悪の道に唆した最低な人間でしかないのだろう。  そして、別れないというのなら学校や僕の両親にまでこのことを伝えると言った。未成年に対して、一方的に淫行を働いた淫乱教師なのだと。  母親としてもこのことは公けにしたくはないようで「大事なうちの跡取りなんです。お願いだから別れてください」と目に涙を溜めて言われてしまうと、受け入れる以外に道は残されていなかった。  彼は、自分の母親が僕達の関係を知ってしまったことを知らない。彼には未来がある。その未来を僕が壊してはいけない。  苦しかった。悔しかった。  だけど、どうしようもなかった。  なかなか別れを切り出せずに、ついに彼の卒業の日になってしまった。 式が終わったばかりだというのに、彼は級友達と別れを惜しむのではなく真っ先に準備室を訪れた。けれどそのことを嬉しいと思える余裕なんて、僕には残されていなかった。 「もうこの部屋で会うのも最後なんて寂しいなぁ。でも明日からは先生の部屋に行くからね。あ、先生も明日から春休み? どっか遊びに行こうよ」  疑いもなく未来の話をする彼に、何も言えずに窓から外を眺める。タンポポの花が太陽の光を浴びているが、美しいはずのその光景はどこかくすんで見えた。 「どうしたの先生。そんなところでぼんやりして」  後ろから僕の腰を抱き寄せる腕を、そっと引き離した。振り返りながら彼を見ると、きょとんと首を傾げている。僕は目を逸らさずに、一言告げた。 「別れよう」    彼はぽかんと何度か瞬きをして、え、と言葉を詰まらせた。表情を失くした彼に、もう一度告げる。 「僕達、別れよう。君も卒業するんだし、いい機会だろ」  声が震えないように、淡々と。冷たく言い放つ。  どれくらい時間が経っただろうか。一瞬のようにも何時間にも思える時が過ぎ、沈黙に耐え切れなくなる寸前で彼が先に動いた。  ゆっくり腕を僕の顔に伸ばそうとして止まり、そのまま届くことなく下ろされる。 「どういうこと?」  感情を押し殺したような声に、胸が痛くなった。けれど、ここで引いてはいけないと心の中で自分を叱咤し、無理やり表情を作る。 「そのまんまだよ。もう君はここの生徒じゃないんだから、お別れ。今日でさよならだ」 「なにそれ……。もしかして、最初からそのつもりだったの? 俺が卒業したら終わりって?」 「そうだよ。今までありがとう」 「はぁ!? ありがとうって、何だよそれ。そんなあっさり……。先生だって俺のこと好きだろ? なんで別れる必要があるの? そりゃあ会える時間は少なくなるけど、全然平気だし! メールや電話もするし、なんなら毎日会いに行くし!」  勢いよく肩を掴まれた。縋るようなその手を、僕は首を横に振りながら冷静に引き離す。彼はハッと表情を強張らせると、唇を噛んで眉を寄せる。 「なんで? 俺のこと嫌いになったの?」    違う!と、叫ぶことができたらどんなによかったか。抱きしめることができたら、どれだけ救われたか。  彼の性格上、円満に別れられるとは思っていなかった。できれば傷つけることなく終わらせたかった。だけど、やはりそんな都合良くはいかない。それなら僕が悪者になるしかないのだ。  はぁ、とわざとらしく溜息を吐く。 「そういうことを言うから子供は嫌いなんだ。本当はずっと前から、別れようと思ってた。もう子供の相手なんてたくさんだ」 「そんな……」 「僕、今度お見合いをすることになったんだ」  努めて明るい口調で言うと、彼は目を見開いた。戸惑うように口をパクパクさせて、そして目を伏せる。 「俺が邪魔になったってことか」  そうだよ、と頷くと彼の体が震えた。足元に落ちた水滴には気付かなかったことにする。そうしないと、僕まで水滴を落としてしまいそうだった。 「男同士なんて結婚もできないし、子供も作れない。僕は、幸せな家庭を築きたいんだ。だから……、ごめんね」  勢いよく顔を上げた彼は、濡れた頬を隠そうともせずに思い切り睨みつける。 「俺を捨てて、先生は一人で幸せになるつもりなんだ」  何も答えられずにいると、間合いを詰めて胸倉を掴まれる。至近距離から睨まれて、その眼光に怯みそうになる。だけど、ここで目を逸らしてはいけない。最後まで突き放さなくてはいけない。 「遊びだったの?」 「そうだ」 「――っ!? 俺は本気だった! 先生だって俺とずっと一緒にいたいって言ってただろ!」 「……ベッドの上での言葉を真に受けるな」  チッと舌打ちされ、思い切り突き飛ばされた。近くの椅子に躓いて派手な音と共に床に倒れてしまう。地味な痛みに顔を顰めるが、見上げた彼は僕以上に悲痛の表情を浮かべていた。  胸が苦しくて、呼吸が上手くできない。  それでも、震える手を抑えながら最後の毒を吐く。   「気が済んだら出て行ってくれ。もう二度とここには来るな」  その瞬間の彼の顔を、僕は一生忘れることはできないだろう。呼吸の仕方を忘れてしまったのかと思った。  しばらく睨み合い、先に息を吐いたのは彼だった。近くに置いていた鞄を手に取ると、そこから何かを取り出して壁に思い切り投げつける。ガラスが割れたような音が部屋に響き、けれど彼はそちらを見ることもなく叫んだ。 「もういいよ、勝手にしろ! さようなら!」  足早に部屋を出て行き、バタンと大きな音でドアが閉まる。廊下の足音が遠ざかり何も聞こえなくなっても、しばらく動くことができなかった。    それ以来、彼とは会っていない。  電話番号も変え、アパートも引っ越した。それでも教師という職業をやめなかったのは、僕にはそれしか残されていなかったからだ。  この職に縋りつくために彼を捨てた。そう捉えられても過言はない。  ――僕は、最低な人間だ。  彼を失い、心にぽかりと穴が空いてしまった。  二人だけで生きていく覚悟があれば。手を取り合って、遠い土地に逃げることができたら。  そんな後悔が頭に過ることもあるが、失ったものは決して取り戻せない。  全ては、僕の弱さが招いた結果だ。  そう思っていたのに。  どうして、君は……。

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