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第2話

 ある春の日。新学期の慌ただしさも一段落ついた頃、僕は化学準備室で実験に使う薬品を点検していた。そして、慎重にしていたつもりだったのだが、つい手を滑らせて薬品の瓶を床に落としてしまったのだ。派手な音とともに辺りにガラス片と液体が飛び散り、その瞬間に鼻の曲がりそうな臭いが広がった。それは毒性はないが臭気の酷い薬品だった。  半ばパニックになりながら大急ぎで窓を全開にし、掃除に取り掛かろうとすると、窓の外から盛大に咳き込む声が聞こえたのだ。 「ゲホッ、ゴホッ、え、くさっ!何この臭い」  驚いて外を見ると生徒が庭で顔を顰めていた。美術部なのだろうか、タンポポの群生の真ん中でキャンパスと絵具を広げていた。  ここの庭は校庭とは反対側に位置していて、化学室を含む特別教室が並ぶ棟に面していることから普段ほとんど人が立ち入らない。今日も誰もいないと思っていたのに、申し訳なさに頭を下げる。 「ごめん! ちょっと薬品をこぼしちゃって。毒はないけど、ほんとごめんね。すぐに片づけるから、しばらく逃げていた方がいいよ!」  慌ててそう言うと、彼は苦笑を浮かべながらこちらに近づいてきた。授業の受け持ちではない生徒で、初めて見る顔だった。 「ああ、ここって化学準備室なんですね」  そんなことを言いながら窓から顔を覗かせると、室内の惨状を見て再び顔を顰めて袖で口元を覆う。 「ガラスの割れた音が聞こえたと思ったら……、酷いことになっていますね。先生、そこから動かないでください」 「え……?」  どうして、と聞く前に、彼は荷物もそのままにどこかへ走って行ってしまった。  まぁいいかと部屋の片づけに取り掛かる。いらない新聞紙で薬品を拭きとっていると、突然ノックもなしに部屋の扉が開き、驚きに飛び上がりそうになった。 「うわっ」 「あ、すみません。お邪魔しますーって、先生! 動かないでって言ったでしょう、スリッパなんだからガラスが入ったら危ないです」  彼は両手に雑巾や箒、ちりとりなどを持っていた。そして、戸惑う僕をよそに手早く掃除を手伝ってくれる。彼のお陰で、あっと言う間に部屋は元通りになった。僕一人だったらもっと手間取っていたことだろう。 「ありがとう、お陰で助かったよ」 「これくらい全然平気ですよ。俺、妹と弟がいてしょっちゅう汚れ物の後片付けさせられてますもん」  そう得意げに言うが、よく見ると彼の頭にはタンポポの綿毛がたくさん付いていて、ついつい笑ってしまった。緩く癖のかかった黒髪から一つ一つ取ってあげると、彼はほんのり顔を赤らめながらも大人しくしていた。背が高くカッコイイ子なのに、その様子はなんだかとても可愛らしく思えた。  これが、彼との初めての出会いだ。    それから、どういう訳か彼は準備室によく顔を出すようになった。元々人気のない場所を探して絵を描いていたようだが、この部屋が気に入ったらしい。自分で持ち込んだ椅子に座り、窓から見える風景を描いたり、ときには僕のことをスケッチしたりしていた。  僕は元々一人が好きなタイプで、空き時間は職員室よりほとんど準備室で過ごしていた。彼も同じように一人が好きなタイプのようだが、いつの間にか二人で過ごす時間に居心地のよさを感じるようになっていた。  そんな日々が続き、ある日思いがけず告白をされた。 「先生が好き」だと。  さらに恋人になってほしいと言われ、もちろん即答で断った。教師と生徒がそんな関係になってはいけない。ましてや男同士だ。  それなのに、彼は聞かなかった。何度も何度も愛を告げる。軽く挨拶のように言ったり、真剣に真正面から言ったり。不意打ちで頬にキスをされたり。  そのことを全く嫌だと感じなかった時点で、もう僕は駄目なのだと思う。彼の存在は僕の中でどんどん大きくなり、ついに粘り勝ちのような感じでその想いを受け入れることになった。  堂々とできる関係ではなかったが、それでもお互いが好きで好きで仕方がなかった。 昼休みに一緒にお弁当を食べたり、放課後に準備室でのんびりと過ごしたり。いつしかそれだけでは足らなくなり、休日に僕のアパートに来るようにもなった。お互いの想いを確かめ合いたくて、熱情に浮かされるように何度も体を繋げた。禁忌を犯しているという後ろめたさがあっても、やめられなかった。  このままいつまでも一緒にいたい、離れたくない。考えていたのはいつもそれだけだった。  だけど、恋に溺れた僕達を待っていたのは、幸せな未来ではなかった。

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