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第1話
嗅覚というものがあったなら、人のように狂えていただろうか。
〝僕〟に搭載されている感覚機関は人間の五感に限りなく近いけれど、本来の役割、つまりは戦闘行為に不必要な機能は、できうる限り除外されている。
僕は機械と人を繋ぐために存在するだけのシステムであり、ツールだ。人である必要はない。
『たとえ、僕に嗅覚があったとしても、人のようには狂えないだろう。ぼくにとって、情報は数値でしかなく、感情にはつながらない。だからこそ、搭載されていないんだ。どんなに精巧に作られたとして、人と同じ存在になるべく理由がないんだ』
スピーカーから、合成音声が流れる。
僕に用意されている声は、落ち着いた男声だ。わりと、気に入っている。
主人であるミナイ・ユウヒの母国語に合わせて、コクピット内での会話は、すべて日本語に設定されていた。微妙なイントネーションで様々に意味を変える不思議な語源だ。
パイロットの精神的安定を目的として、僕はミナイとの会話をしていた。ミナイは寡黙だが、僕とだけは良く喋った。
今は、返事がないので全て僕の独り言になってしまうわけだが、機械とはいえ癖が出る。僕の癖は、おしゃべりなところだろう。返事がなくともついつい喋ってしまう。
僕は、人型戦闘兵器のオペレーションシステム。つまりは、AIだ。機体番号から〝ナイン〟と通称で呼ばれている。
登録されているパイロットは、日本国籍を持つ男性で、二七歳、独身。
名前は、ミナイ・ユウヒ。すでに、息は途絶えてしまっている。
何を喋っても、独り言になるわけだ。死体は、喋れない。喋りたくとも、沈黙するしかない。
人間のように虚しいと思う感情がないのが、幸いだ。いつまでも喋っていられるおかげで、ぼくは稼働し続けられている。
コックピット内の環境を維持するために、僕は本国から救援が来るまで眠りにつけない。
外は、灼熱の砂地だった。いくら密閉度が高く、分厚い装甲に守られているとはいえ、快適な温度を保つには限界がある。
空調をとめれば、ミナイ・ユウヒの遺体はすぐに朽ちるだろう。生命活動の停止は、腐敗を招く。
最適な気温を保っていても、柔らかな体はすでに形を変えはじめている。
溶けるように朽ちる肉体は、まるで、僕の中にミナイが消化されていくようにも思えた。
『冗談は、本当にならないから面白いんだろうね』
機体を棺桶にする、なんて言っていたミナイを僕は叱りたい。
ミナイ・ユウヒの体型にぴったりと合わせたシートには、きっと死臭がこびりついているのだろう。嗅覚のないぼくにはわからないが、掃除をする羽目になるだろうスタッフには、同情する。
『ドロドロになる前に、来てくれるといいのだけれどね。僕もさすがに、グロテスクな君は見たくないよ。性格はとやかく言えないが、容姿は比較的良いほうだったからね』
ミナイ・ユウヒの死亡は、すでに本部に連絡してある。
残る僅かな電力で、亡骸を守りながら独り言をつぶやけている間に来てくれると助かる。不慮の事故が無い限りは、間に合うはずだ。
『君の、数少ない友人たちに会わせられるくらいの損傷で留めておけるといいんだけどね。僕の内部電源が持つことを、天国から祈ってくれよ。天国に、君は行くんだよね?』
ミナイ・ユウヒは天涯孤独であるが、友人は多い。
惜しむらくは若く容姿がいいくせに、僕にかまけて伴侶を作れなかったことだろうか。
人類の総人口が少ない昨今、ミナイはとことん政府に非協力的な人間だった。いや、命を差し出して戦っていたのだから、じゅうぶん貢献していると言えるか。
優秀な遺伝子が、途絶えてしまうのは政府として痛手ではあるだろうが、仕方ない。本人の意向は、覆してはいけない。
世紀末な情勢であっても、自由意志は認められていなければ人類社会に価値などない。
『ミナイ、君はいつも刹那的だった』
伴侶はともかく、ミナイは精子提供も拒んでいるし自身の複製制度にも反対している自然派だ。
コックピットから遺体を引きずり出されたら、僕はもう、ミナイと会えない。
『寂しいと、感じたい。僕は君が好きだった』
僕は、搭載されている様々なセンサーでミナイを見ていた。鼓動、思考、言動。彼の全てを、記録している。
死したミナイを見続けるのは、機械でも結構辛いものがあったが、任務が終わらない限り、僕は記録しなければならない義務がある。
いずれ、消去されるとしても。
悲しい、性だ。しかたないと、割り切るより他にない。
最期の最期まで、記録し続けることが、僕がミナイに向けられる唯一の情なのかもしれない。
僕は、朽ちゆく体の崩壊を止められない。まさか、コクピットを丸ごと冷凍させるなんて不可能だ。
食い止めるだけで、精一杯だった。
人のように抱きしめる手はなく、悲しむ心はなく、狂う感情も持っていない僕にとって、無駄だと思える手立てを行使することこそが、抱いているはずの悲しみを表現する手段なのかもしれない。
肉体に、どれほどの意味があるか僕にはまだ理解できない。
死という形が己の内部に確かにあるはずなのに、僕は死を感じられない疑似人格だ。
セラピードールだったのなら、まだ少しは違ったかもしれない。彼らは人に感応するよう作られている。素晴らしい子たちだ。
対して、僕は人類を脅威から守るための兵器だからこそ、感傷的な思考はできないように作られている。常に冷静さを求められていた。
悲しいと感じる心がなくて良かったと、いっそポジティブに思うしかないのかもしれない。
死にゆくミナイを見守り、朽ち行くミナイを見守る。
そして、蓄えたデータの全ては、新しいパイロットの情報で上書きされて行くだろう。
すべて新しく更新され、僕の中からミナイは消える。
オペレーションシステムでしかない僕は、あたらしい人生を受け入れるよりほかにない。
『わかっている、わかっているけど……嫌だな』
ぼくは、ミナイを失いたくない。
だからこそ、人のような感情が欲しい。狂うほどの、激しい思いが欲しかった。
運命にうち抗うための、激しい感情が欲しかった。
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