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第三章(1)
じっと小さく切り込みを入れた断面を見た。それは茶色く変色して乾燥も始まっている。片方の手に持った小枝の斜めの切り口も同じ有様だ。
彩都はしゃがんだまま、両手の枝を眺めてため息をつく。
「なかなか上手くいかない。やっぱり三年前のは偶然だったのか」
この研究室に続く坂道沿いに植えられているのは、彩都が再生に成功した五本のソメイヨシノの木だ。あの時は芽吹いた若葉に踊りだすほどうれしかったが、それから何度かの病気の危機を乗り越えて、今は葉が繁るほどに成長した。しかし三度目の春を迎えても、どの桜の木も花を咲かせるどころか、蕾にもならなかった。
「やっぱり接木のほうがいいのか。それとも用土の配合を代えたほうが良い?」
タブレットで大学図書館のアーカイブからダウンロードした昔の資料を見てブツブツと呟く。
昔は樹木医と言った園芸の専門家がいたそうだ。彼らのなかには「桜守 」という桜の木を専門にした人たちもいて、皇居や全国の有名な桜を守っていたらしい。しかし、桜落の大災禍の始まりの年の春に、まるでこれからの災いを予兆するように列島の桜という桜は一気に咲きほこり、そして一晩で散っていった。その後は木々は立ち枯れ、桜を守っていた人たちも桜斑病に倒れて、今ではもう人々は花を愛でることはできない。
彩都は汚れるのも構わずにその場に座り込むと、白衣の裾で土で汚れた手を拭って持ってきていた写真集を開いた。
それは神代稜弥が初めて研究室に訪れた時に差し出した祖父の写真集。稜弥はその写真集を熱心に眺めていた彩都に「この本は研究室に置いておきます。好きなだけ見てください」と言ってくれた。
(凄いな、この吉野山の薄紅色の鮮やかさ。こっちの千鳥ヶ淵の川面に映っているのも、なんて美しいんだろう)
若かりしころの祖父が見ていた光景は、本当に夢のように思える。
彩都は膝に本を載せ、じっくりと写された桜の花弁ひとつひとつを目に焼きながらページを捲った。
(でも、やはり写真でなく本物の桜が見てみたい。この国のどこに行っても、春になれば花が咲いていたなんて信じられないな)
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