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拝啓、春陽の候
そろそろかもしれないと、確かに本人は言っていたけれど。公務員の移動の内示というのは、直前にならないとわからないのだそう。三学期も終わってから発表された内示によって予想通り移動の決まったノアは、しかしいくら予想していたからといって前もってできることなど何もなかったわけだから、慌ただしく荷造りを強いられ、慌ただしいままに離任式で涙の別れをし、おかげで週末のデートは何度か延期を余儀なくされていた。
転任はこれで二度目だと言う。
「でも、俺はちょっと嬉しいんだよねえ」
「そうだね、俺も」
「まだ何も言ってないけど?」
「はは、うん。でもたぶん、俺たち、同じことを言おうとしてるんじゃないかな」
「じゃあ、ノアから言う?」
「いいえ、お先にどうぞ」
憎らしくも茶化す恋人の肘をつねると、ふっと愉快そうに笑ってハンドルを左へ切る。フロントガラスから強烈な夕陽が射し込み、眩しそうに目を眇めたノアがサンバイザーを下ろすのを横目で見ながら、摂はゆっくりと胸の内を口にした。
「……通勤時間が三十分、長くなったんだって?」
「二十分だよ」
「そうだっけ。でもその分、近くなった」
「ええ」
穏やかな相槌に、顎の付け根がじわりと痺れるような気持ちになる。
「だから、嬉しい」
「うん、俺も」
彼の新しい赴任先は、今までよりも丘の上の教会から少し遠く、摂の住む街に少し近い。たったそれだけのことが、自分にとって、そして彼にとって――二人して思わずこそばゆくなって黙り込むくらいには、嬉しいのだ。
デートが延期を重ねた結果、単なるドライブの予定が花見へと変わった。桜の名所と名高い公園はすさまじい人出だったが、名所と呼ばれるだけある豪華さで、この週末を逃せばあとは葉桜となり散っていくだけの、まさに今が満開の様相だった。ライトアップ用の照明は、昼間はただ間の抜けた透明な装置でしかなかったが、さぞや美しいだろう夜桜を鑑賞するのは来年にして、遅めのランチのために行きと同様の渋滞に乗り込んだのは三時間ほど前だったろうか。
前日にはフレンチの気分だなんて言っていたくせに、急に散らし寿司が食べたいなんて思ってしまったせいで、それでなくとも遅いランチがさらに遅れてしまったが、ネットを駆使して探し出した店は素晴らしいちらし寿司を提供してくれた。
まぐろ、あなご、しめさば、サーモン、甘海老、茹で海老、いくら、甘く似た干し椎茸とツナ、卵焼き――えーと、あとはなんだっけ。ネタはどれも厚みがあって大きく、特にしめさばが絶品だった。そうだ、ノアはホタルイカが気に入っていたんだ。それに、海老のお頭が突き出したあら汁に、季節外れの銀杏が三つも入った茶わん蒸し、食後には熱い緑茶。日本人は和食だよね、などとしみじみ言い合ったのは、日米ハーフと日英クウォーターだ。いかにも自分たちらしいと思う。
マンションに着く頃には、夕陽は沈んでいた。ぼんやりとした生ぬるい薄暗さに、今日だけで何度言ったかわからない「春だね」がまた口をついた。
先に靴を脱ぎ、背後でしゃがみ込んでスニーカーの靴紐をほどくノアの前に膝をついて、顔を覗き込む。
太いセルフレームの眼鏡が黒縁でなくべっ甲縁であることにも、さすがに見慣れたかな、という感じ。去年の真夏に彼が車内で駄目にした黒縁に代わって、二人で見立てたものだ。彼特有のノーブルな印象を少しカジュアルにする効果のあるセルフレームの奥で、濡れたように黒い瞳が丸くなる。構わずに唇を押し付けると、失笑の息を漏らしながら、しかしそのまま受け止めてくれる。
……ちゅ、と音を立てて放すと、驚いているような面白がっているような色が、ハンサムな顔に浮かんでいた。
「どうしたの?」
「ランチの前にさ、渋滞と空腹でちょっと八つ当たりしたから」
「ああ、うん、そうですね」
「減ったポイントを、戻しとこうと思って」
ふふふふっ、と、肩を揺らして笑ったノアが、今度は摂にキスをする番。
「戻すだけでいいの?」
「んー、じゃあ、増やしとこ」
ちゅ。ノアの立てるキスの音は一級。もう一度顔を見合わせて、笑い合う。
「今日はありがと、楽しかった」
「こちらこそ」
いまだ快い満腹感が残る身体を、思いきりベッドに沈める。すぐに隣りが一際大きく沈み、腕を伸ばして誘うと、慎重に覆いかぶさってくる。
「夕飯はいらないね」
「そうですね」
彼が今すぐに食べたいのは、別のもの。それは、自分にとっても同じだ。
落ちた前髪を丁寧に指でよけてくれるから、お返しに、漆黒の巻き毛を弄ぶ。
吐息を交わしながら、彼は紺色のトレーナーを脱ぎ、十字架のチェーンを外す。複雑なルーツによって表現された滑らかな象牙色の裸体は、美しく盛り上がる筋肉と相まって、芸術的ですらある。それを存分にまさぐってから、摂が自らニットを胸まで上げると、ノアはそこから覗いた乳首にゆっくりと吸いついて、唇で、舌で、音を立てて味わい始めた。
「ん……」
愛撫の強弱に合わせて枕に頭や頬を擦りつけ、指で絡め取った巻き毛を時々たまらずに引っ張る。暖かい唇の感触が脇腹へ逸れ、あばらをなぞるようにして遠ざかり、一度身体を起こした彼が摂のジーンズの紐をほどき、ジッパーを下ろす。マネキンに徹するには少し火照りすぎているが、彼に軽々と脚を抱え上げられ、その力強さとは裏腹にひどく丁寧に脱がされるのは気分がいい。
「先生って、大変だよね」
「なに、急に」
「急に思ったんだもん。数年ごとに転勤なんてさ」
「そう?摂だって、転勤あるでしょう」
「うーん、俺は本社からこっちに来た時の一回だけだし」
すっかり摂の服を脱がし終えた大きな手が、太腿からふくらはぎを優しく撫でる。
「摂は、そういう話はないの?」
「俺を遠くへ行かせたいの?」
「まさか。でも、現実的な話」
言いながら内腿の柔らかい所へ口付けるから、知らず腰が跳ねあがりそうになるが、しっかりと捕まえられていて衝動だけが内側へじんじんと響く。
「……あるには、あったんだけど」
「あったの?」
股の間で顔を上げたノアの頬を、撫でる。
「ねえ、俺が海外に転勤になったら、ノアはどうする?」
摂の手のひらに頬を擦りつけてうっとりと目を瞑ったノアは、次に濃い睫毛を瞬くと、静かに言った。
「……一緒に行くよ」
「ありがと」
意地悪をしたいわけじゃない。
現実的な話、と、彼も言った。だから、彼の真摯な答えは本心なのだと伝わる。それは泣いてしまいそうなほど摂を満たし、
「できれば教育関係の仕事を続けたいな」
ほんの少し笑わせるのだ。
「うん、天職だもんね……んっ」
また、内腿をきつく吸われて、声が上ずる。数ミリずつずらしながら執拗に吸われて、開きたいのか閉じたいのか、両脚がわななく。うごめく黒髪をくちゃくちゃに掻き回しながら、摂は下腹のうねりを堪えた。
「一時期ね、そんな話になったことがあったんだけど。まあ、うちもさ、ニュースの通り結局はそういう風向きだから、俺も現状維持ってわけ――ねえ、ノア」
「なに?」
「今日はそういう気分なの?」
焦らされるのは嫌いではない。
ただ、触れられることのないままに首をもたげてしまったピンクの先端が、摂を急かすのだ。
「どうかな」
「ねえ……」
逞しい肩に片足を足を乗せる。
露わにしてみせた、彼を想ってひくつく場所。ノアはそこへ鼻先を挿し込むようにして、恭しくキスをした。
「あ……」
暖かい春の宵の口。
靄がかったような薄闇から、気付けば、外はどっぷりと暗くなっている。
明日からしばらく天気が崩れるらしいけど。花見は済ませたから、もう雨が降っても構わない。
三月末からしばらく、彼は怒涛の毎日だった。
一体どれほど、恋人に抱かれる夜を夢見たろう。
忙しいのは仕方がないけど、一人で慰めるのにはきっともう飽きているはず。そうでなければ、こんなふうに、方位磁針みたいにお互いを指して昂ぶらない。
ベッドの上を何度も転がって、もつれ合う。
「ベイビー、ねえ」
しなやかな首を引き寄せて、熱い唇に唇を寄せる。
疲れ果てて意識を失うくらいに何度も繋がって、明日の朝は、二人して寝坊したい。
終わり
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