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ビコーズアイラブユー7

 久しぶりの再会がそうだったように、別れの場所も駅になる。  日曜の夕刻もまた、ターミナル駅の混雑する時間帯だ。新幹線の改札口手前、乗客の流れから少し外れた位置で、さくらが振り返る。 「ありがと、ここでいいよ」 「うん」  二日間、姉の希望を叶えるための強行スケジュールだったが、さくらは摂の手からキャリーバッグを引き取ると、楽しかったー、と一泊二日を総括してみせた。バッグはショッピングの成果と土産物で膨らんでおり、もちろんあれだけの買い物がバッグ一つで納まりきるはずもなく、紙袋とビニール袋をそれぞれ提げている。旅のテンションがそうさせたのと、多分にストレス解消の意味合いもあったのだろう。 「こっちまで迎えに来させちゃえばよかったのに、英介さん」  一つの思惑が外れたことを告白した摂に、これから単身東京へ戻る姉は、あっさりと首を振る。 「だめよ、明日仕事なんだから。ひかるもいるんだし」 「なんだかんだ言って、良妻賢母だねー」 「そうよー」  摂の揶揄を真似るように冗談口調で応えて、姉は何気なくも強引に話題を転じた。 「でも待ってたんだけどな」 「ん?何?」  目的語のないせりふに、返せたのは最小限の疑問だけだった。 「会わせてくれるの、待ってたんだけどな。パートナー、いるんでしょ?」  ちらりと見上げてくるさくらの目は、窺うようなものではなく、やはり少女っぽい好奇心に満ちているように見える。思わず背中がひやりとしたのも、謝罪の言葉がせり上がりそうになるのも、たぶん自意識過剰のなせる業だろう。彼女の夫は知っていて彼女自身は知らないはずのことを、ほんとうは気づかれているのではないかという思いは、危惧などという高度な脳の働きではない。根拠を見出せるのは外側ではなく内側、自分自身の中でしかなく、それは姉に対する幾ばくかの罪悪感と置き換えることができる。 「――残念でした」  にっと笑って明言を避けると同時に、追求を回避する。 「ほんとだよ、残念」  自分自身を、愛する人を守るために、取るべき最良の方法はこれだと信じるから。 「せめて、よろしくお伝えください?」 「はは、何を」 「何をっていうか、せっちゃんをよろしく、かな」  言い返せない摂に向かって、ハグのために先に両腕を伸ばすのはやはり姉だ。背中を抱き返すと、柔らかい微笑が首筋をくすぐった。 「元気でね」 「さくらちゃんも。よかったら、また来て」 「ありがと。今度はせっちゃんがこっちに来てよ。ママ達の家でもいいから、たまには帰ってあげないと」 「ん、そうだね」 「あ、首お大事にね。もう無茶な運転しちゃ駄目だよ?」 「最初からしてないって」  話題の一つとして提供した体験談だが、新車を買うに至るまでのストーリーは、少し年の離れた姉にしてみれば弟のやんちゃが原因と思えて仕方ないらしい。完全に相手の前方不注意で、こちらの過失がゼロだと説明しても、どうしても信じてもらえないのだった。 「じゃあ、行くね」 「うん、気をつけて」  小さく手を振ったさくらは、改札を抜けたところで振り返り、今度は大きく手を振る。その後姿がエレベーターの向こうに消えるまで見送り、やがて目の前に広がる光景は、なんでもない新幹線用改札口の様子へと戻る。摂は下ろし損ねていた右手を尻ポケットへしまうと、その場を後にした。    駅前の有料駐車場から、マンションへは戻らずに反対方向へ伸びる車線に乗る。  この混雑なら、小一時間というところだろうか。  カーステレオのFM放送からは、懐かしいというより自分にとっては懐古趣味に感じる、80年代AORが流れ始める。梅雨明けにはまだ間があるだろうが、ずいぶん日が長くなっていて、窓の外は曇天ながら日没にはまだ遠いようだった。  市街地を抜け、郊外に出て、空港方面へ海沿いの国道を走る。  やがて小高い丘を有した町へ入る頃には、辺りは薄暗くなっていた。ひたすら続く、緩やかなカーブと緩やかな上り坂。この先に、摂の目指すプロテスタント教会がある。遠くに見ていた十字架のシルエットが、徐々に、近づいてくる。  門扉をくぐり、砂利道をゆっくりと進む。塀伝いに植えられた木が晴れた昼なら心地よい木陰を作る駐車スペースは、今、車は一台も停まっていなかった。  車から降りると、むっとした空気がまとわりつく。同じ敷地に建つ住宅と礼拝堂を見比べ、摂は、礼拝堂へ向かうことにした。ノアは家にいるだろうか?二階の部屋にいたとして、車の音に敏感に気づくだろうか?携帯くらい鳴らしてみようかと思いながら、石段を上がり、礼拝堂へ入る。まず行うべきは、祭壇近くのベンチに腰掛け、祈ることだ。子供時代の海外生活でカトリック教会には通っていたが、プロテスタント流では十字を切ったりしないのだと教えられた。ポケットから取り出したクロスを軽く握り、数秒、瞑想ともつかない黙祷を捧げる。  背後でカタンと、物音がした。  床を踏みしめるしっかりした靴音は、たぶん、期待通りの人物が近づいて来ていることを摂に知らせるものだと思う。  肩越しに振り返ると、長身の全貌を確認するより先に、 「どうして、黙って来るかな…」  苦笑混じりに非難された。  スニーカー、コットンのパンツ、カットソー、それに黒縁眼鏡。今日もラフな格好だ。摂は身体ごとノアに向き直り、笑う。 「黙って来られたら、何か都合が悪いの?」 「待つ楽しみがないでしょう」  平然とした切り返しで摂をやり込めて、ノアはすぐ後ろのベンチに腰掛けた。 「メール、読んだよ。大変だったね」  今日も隙を見て、何度かメールを送っている。彼の口から出たのはやはりありきたりな労いの言葉だったが、メールの素っ気ない文字列より、実物が落ち着いたテノールでそう言ってくれるほうが、ずっと効果があるというものだ。 「そうでもないよ」 「そう?」  だったらあのメールは何なんだ、とでも言うように、黒縁眼鏡の奥の瞳が揶揄うような光を湛える。 「姉とはすごく、仲良いからさ」 「ああ、そうでした」 「ノアは一人っ子だもんね」 「うん。羨ましいよ」  姉弟の醍醐味は、一人っ子には実感のないことだろう。ただし、摂にとっては、ノアの一人っ子ならではの余裕に満ちた人となりのほうが、何かの奇跡の産物のように思えるのだけれど。 「その姉が、よろしくお伝えくださいって」 「うん?」 「あ、深い意味はないよ、何も。ノアのことは…ってゆうか、俺のことは話してないし。ただ、俺のパートナーに伝えてって。そういう姉なんだよね」  深刻なメッセージではないと明かすと、かすかに憂えた彼の眉根が、元の穏やかさを取り戻す。 「そう。仲良いね」  柔らかな相槌に、摂もまたゆっくりと頷いた。 「――あ、そうだ。何しに来たのか忘れるところだった」 「俺に会いに来たんじゃないの?」 「んー、それは二番目の目的かな」 「そうですか」  わざとらしく頬杖を突いて、わざとらしく不服そうな顔を作るから、吹き出してしまったじゃないか。 「そ。一番の目的は、これね」  指に絡めたチェーンを解き、手のひらに小さな十字架を載せて差し出す。 「ああ…ありがとう」  特別な感謝がこもっているのだろう、感嘆に近いトーン。ノアは指先でそっとそれをつまみ上げると、慎重な動作で留め具を外して首にかけた。胸元に垂れた十字架の角度を直してやると、その手を十字架ごと握られる。ごく弱い、包み込むような握力だ。 「ノア?」 「ありがとう」 「うん、どーいたしまして」  重なる感謝の言葉に摂が頷いても、握られた手は解放されない。 「ノーア?」  軽く揺すると、今度は、ゆるむどころか強くなる。そうすると、何となく十字架を握っていた自分の手がゆるみ、知らず、ノアの胸元に指が這う。エキゾチックに整った顔と、その向こう、夜に染まり始めた礼拝堂の入り口を見比べたのは一瞬で、すぐに唇が重なった。  ベンチから身を乗り出すようにして、キスをする。  名前を呼ばれたような気がしたから、答えたような気がしたけれど、続けて囁かれた「I LOVE YOU」に全部を乗っ取られる。同じように愛してると囁き返し、それを封じ込めるように、また唇を重ねた。   「…今度、うちに来る時にさ」 「うん?」 「ママレード買ってきてね。終わっちゃったから」 「はい、わかりました」     ミーティング前、会議室へ向かう途中の自販機前で足を止める。冷たいジュースの一本でも持ち込みたい気分だ。ついつい贔屓にしてしまう、カロリーゼロのダイエットコーラのボタンを押す。  ガタン、とペットボトルが落ちてきた横で、やはり同じくガタンと鳴る。  コーラを取り出しながら見た隣の自販機には、スカートの滑らかなライン。背筋を伸ばすと、安斎と目が合った。 「お疲れ様」  あと数分で始まるミーティングに同席する予定の彼女の手には、レモンスカッシュの黄色いボトルがある。 「お疲れ様。安斎さん、もしかして炭酸好き?」 「え?あ、そうかも」  明るく笑った彼女が、呑み会のソフトドリンクは大抵炭酸飲料で、この間もマルゲリータをジンジャーエールで流し込んでいたことを思い出す。 「そう言う二見くんは?」 「俺は、時々これ飲むくらいかなあ」  摂が手にしたダイエットコーラのボトルを見ながら、安斎が言ったのは、しかしそれとは全く別のことだった。 「また噂、だね」  陽性ではあるが、揶揄に満ちた声音だ。 「まあね」  それに答える自分の声も、苦笑に揺れる。 「浮名を流すって、二見くんのためにある言葉じゃない?」 「そういうふうに、誤解されやすいんだよね、俺」 「なんだ、また誤解なの?」 「そ、また」  肩をすくめて答えた摂から、ことさら真相を聞き出す気はないのだろう。安斎はただ面白そうな顔つきで笑うだけだ。  週が開けて、新しい噂が浮上している。二見にはどうやら安斎の他に本命がいるらしく、週末にはそのハーフの彼女とデートをする姿を見たとか見ないとか。 「でも二見くんはいいわよ。私なんて、これでいくと、振られ役よ?」 「現実にはまず振られないでしょ、安斎さん。貴重な体験だって」  お互いに混ぜ返し合い、また笑う。  噂の新陳代謝は思ったよりサイクルが早い、という暗黙の同意。それ以上話すことはないし、何より、腕時計の針が指し示す時刻のほうがよほど深刻だった。 「…まずい、始まる」 「じゃ、行きましょうか」 「だね。行きますか」  胸の中で小さく深呼吸をして、摂はフロアの絨毯を蹴った。 <終わり>

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