2 / 25

第2話

 何年か前に成立した法律で、体育の日は決まって十月の第二月曜日になった。ハッピーマンデー、なんて能天気なネーミング。今年は偶然に、旧来の十月十日がその日だ。経験からたいてい、結婚式は日曜日の前日、つまり土曜日に行われることが多いのだが、月曜日が祝日ということもあって日曜の今日が挙式だった。  朝から快晴。  高い窓から太陽がさらさらと降り注ぐ、多少ぼろの、小さな礼拝堂で式は順調に進んでいる。  てっきりホテルか結婚式場内に併設された教会だと思い込んでいた摂にとって、古い石造りの、はめられたガラスも古めかしく素朴な空間はとても意外で、けれど夫婦となる二人にぴったりだと思えた。地元育ちの奥さんが、小さい頃に通っていた教会なのだそうだ。  真っ白、純白と表現してあげるのがいいだろうか。純白のバージンロードを辿った先のシンプルな聖壇に立つ、夫となる人と妻となる人、それから牧師を最後列からぼうっと眺める。左側の窓から当たる強い日差しに少し、目を眇めながら。  白髪混じりの立派な黒ひげをたくわえた牧師は、風変わりな誓約を要求する人物だった。 「あなたはこの姉妹と結婚し、神の定めに従って兄弟になろうとしています。あなたはその病める時も、健やかなる時も、常にこれを愛すことを誓いますか?」 「はい、誓います」 「敬うことを誓いますか?」 「はい、誓います」 「慰めることを誓いますか?」 「はい、誓います」 「重んじることを誓いますか?」 「はい、誓います」 「守ることを誓いますか?」 「はい、誓います」 「その生命の限り、堅く貞節を守ることを誓いますか?」 「はい、誓います」  畳みかけるような問いかけに、緊張でトーンの高くなった声が、何度も同じ文句を繰り返して答える。牧師は満足したような、それでいて最後列の摂から見ても判る茶目っ気のある笑顔を見せて、大きく頷いた。姉妹の部分を兄弟、兄弟の部分を姉妹に入れ替えて、同じ問答を新婦とも行う。元・国内線のフライトアテンダント、こちらは落ちついたものだ。  それから結婚指輪の交換があり、彼の手が新婦のヴェールをそっと持ち上げる。それは形式的な動作で、誓いのキスはなく、ヴェールはすぐに下ろされた。 「博と由香は、神と公衆の前で夫婦となる約束をしました。故に私は父と子の精霊の御名において、この兄弟と姉妹が夫婦であることを宣言します。神が合わせたもうたものを、人は決して離してはなりません。アーメン…」  ゥワーン。  電子オルガンの、ぼやけた和音。  一人一冊ずつあてがわれた歌集は、よく手入れされながら使い込まれた、といった風情だ。その表紙を手のひらで軽く撫で、席を離れる。隣りに立つ同じく来賓の男が、おやと不思議そうな顔をしたが、礼拝堂に鳴り響くオルガンに紛れて、摂はその場から静かに立ち去ることができた。    外の好天気に、一寸目が眩む。地面に敷き詰められた砂利に革靴の先を埋めて、少しだけ蹴上げる、ジャリ。うららかな日曜日の昼下がりだった。  光ヶ丘キリスト教会というのが、このプロテスタントの教会の名前だ。光ヶ丘は、少し高台になっているこの辺り一帯の地名であるらしい。ここに立っていると、見下ろす家並みの間から時々、水平線がきらきらと輝くのが判る。法人営業の摂にとって、この海の見える小さな町は、ほとんど見知らぬ町だった。国際線を有する空港への通り道なので、見送りや出迎えのために通過するだけの町。  電子オルガンの伴奏に乗ってかすかに、賛美歌の斉唱が聴こえ始める。 ◇ ◇ ◇  両家の人間は、後から後から訪れる人々への挨拶に追われている。  入れ替わり立ち代りの知らない顔を眺めながら、摂だけがぼんやり、壁際のソファーに腰掛けていた。話し相手もいないので、お喋りな摂にとってはつまらないだけの時間だ。ソファーから立ち上がって、カーテンをくぐる。中庭に面したテラスに出ると、 「せっちゃん」  追いかけるように背後から声をかけられる。ちょうど客の切れたタイミングだったのだろう、新郎が摂と同じように手すりに凭れて、中庭に身を乗り出した。 「……さくらちゃん、すごいよね」  ウェディングドレス姿の姉は、とても美しい。摂の言葉に新郎は思いきり目を細めて、こくりと頷いた。 「きれいだろ?」 「うん」 「あはは、いいなあ、きみらの姉弟は」  楽しそうに笑って、ちらり、カーテンで遮られた室内を振り返る。 「今日で俺も、せっちゃんのほんとの兄さんになれるな」 「うん。よろしく」 「あ、先を越されてしまった。こちらこそよろしく」  差し出された右手を握り返して、アメリカンスタイルのシェイク・ハンド。姉や摂と違い、彼の血は純粋な日本人のものだが、姉弟が父の母国で暮らした幼い数年間を足したより長い間、彼の人生の半分より少し長い間を海外で暮らしていた人だ。一番長かったのはシンガポールで、それでも三年だったそうだけれど。 「…英介(えいすけ)さん」 「ん?」  四分の一のアメリカ人の血が、どうか彼を暗ませることができますように。ごく軽い調子を装って伸び上がり、英介の頬に唇の表皮を、ほんの0.1ミリ触れさせてすぐ離す。 「おめでと、お幸せに」 「ありがとう」  破顔した彼からの返事は、ほんとうに突然だった―――ぐい、と屈み込んだ彼の唇が、確かに一瞬、摂の唇に触れて、離れた。 「…これで、正解?」 「…………ありがと」  反射的に口を覆った両手の間から漏らした、細く裏返った声。それはおまけに震えていて、他人のもののように聞こえた。 ◇ ◇ ◇  ジャリ、ジャリ。  足音が近づいて来るのに気付いて、顔を上げる。  正確には近づいているのではなく、摂から数メートル離れたところを横切ろうとしていたのだが。相手が先に、こちらを見ていたのだと思う。顔を上げた時には既に、太い黒ぶち眼鏡の中から寄越される視線は、摂にぴったりと合わせられていたのだから。  摂は軽く目を見開いて、人差し指を突き出した。 「あ、ジャズのルーキー候補」  摂の日本語に一寸面食らったような顔をして、それから男は意を得たように微笑む。こちらに向かってゆっくり歩きながら、扉の閉まった礼拝堂を目だけで示すやり方が少し、ウィンクに似ていた。 「中の花嫁に、未練でも?」 「ははは、うーん、そう!と言いたいところだけど」  冗談に笑って、けれど理由は曖昧に、 「結婚式は、あんまり…」  肩を竦める動作でごまかす。  答えはどうであっても構わないのだろう、軽く頷くだけの彼に、摂はもう少しまともな質問をすることにした。 「…あんたは、ここのひとなの?」 「ええ」 「牧師、さん?」 「いいえ」  昨夜よりはずっとラフな、けれど同じく単色の、パンツとカットソー。モノトーンに近い配色のそれはスタイリッシュというよりも無難、であるのに、ここが教会というだけで清々しい印象が勝っている。 「……BBCのアナウンサーかとも思ったんだけど」 「はは、ありがとうございます。母がイギリス人なもので」  お世辞とも嫌味とも取れる言葉に鷹揚に笑う彼は、単純計算で半分イギリス人だ。光りの加減によってかなり明るくなる茶色い髪、薄い色の目の摂がクウォーターで、黒髪に黒い目の彼がハーフなのが、なんとなく不公平ではないか。身長差があるので少し顎を上げて、彼を見る。 「お父さん似なの?」  ぶしつけな摂を、彼は怒らなかった。 「そう見えます?」  苦笑がちに笑って、反対に、そう訊いてくる。ほら、と唆すような茶目っぽい目つきは記憶に新しく、それに思い至れば確かに、ゆったりと体重を感じさせる体格とか、癖っ毛の黒髪とか、それに声―――アーメンと唱えればきっと、牧師とすり替わっていたって判らないだろう。 「ああ、そっか、息子だ!そっくり」 「今日のオルガニストはたぶん、母だったはず」 「そっか」 「そう」  大した意味のない相槌はどこか間抜けていて、 「そっか…変な感じ」  んふふ、失笑してしまう。 「変な感じ。英語喋ってたあんた、俺の頭ん中ではもっとクールだったのに」  そう言うと、彼もつられたように笑う。 「参ったな。どうするのがいいか、測りかねてる……ああ、失礼じゃなければ、お名前を伺っても?」 「もうちょっと簡単に訊いてくれれば、答える」 「はは。名前、教えて?」 「ふたみ。二見、摂」 「Seth?」  セス、突然呼ばれて、戸惑って彼を見上げる。 「あそう、ほんとはね、Seth。じいちゃんはそう呼ぶけど…」  続けて言われたことは、摂をさらに戸惑わせるのにじゅうぶんだった。 「アダムの三番目の息子だ、Seth」 「…そうなんだ」 「そう、なんだ」  まるきり同じ台詞でも、イントネーションを変えれば問いにも答えにもなる。  摂は礼服の胸ポケットを手探り、名刺ケースから一枚を取り出して彼に手渡した。会社名から数行空けて、「第一営業部 二見 摂」、下方に小さなフォントで、ビルの所在地、電話番号、FAX番号、e-mailアドレスが書かれた、営業用のそっけない紙切れ。 「俺は知っているよ、のあ」  名刺の文字を追っていた目線がそこから離れ、摂に戻る。 「聞こえてたの」 「そりゃあ、大声で呼ばれてたもの」  あの時の彼らもきっと酔っ払いだったのだろう。のあ、は意外そうに眉を寄せて、空中を睨んだ。 「そうだったかな、そうか…。俺のNoahは、そのままカタカナで書くんだけど。苗字は、ほりごめ。あいにく名刺は持っていないもので。掘るに、込めるで、堀込」  礼拝堂から距離を置いて、二階建ての木造建築と、倉庫のようなプレハブの建物が並立している。ノアは摂の名刺を指に挟んだまま、二階建ての建物を指差した。彼らのファミリーネームが掲げらた玄関を指すジェスチャーだ。堀込ノア、ちょっとミスマッチだけれど、文字を得てやっと、彼が実体を持った気がする。 「名刺のいらない職業?」 「まあね。学校の先生だから」 「わお、小学校?中学校?」 「高校。英語の先生」 「ぽい」 「そう?」 「で、舐められてるでしょ」 「うーん、ちょっと」  言葉を濁しながらも即答するので、やはり、笑ってしまった。  ギイイイ。  間延びした鈍い音、礼拝堂の左右の扉がゆっくりと開かれる音に、結婚式のフィナーレを知る。 「ライス・シャワーの後始末は俺だから、思いっきり撒いて」  ノアの言葉に、礼拝堂を降り返っていた首を元に戻す。 「ほんとに?」  そうだよ、なのか、冗談だよ、なのか。ひょい、と片眉を上げるだけの仕草では不十分だと思ったが、背後のざわつきが摂を慌てさせた。 「あーねえ、日曜ミサとかやってんの?」 「礼拝、なら」  カトリック風の表現を、ノアがやんわり訂正する。 「あ、そっか…あんたも出るの?」 「礼拝堂にいることも、あるかな」  よかったらおいで、とか、別にそんな言葉を期待したわけではないのだけれど。摂を勧誘するようなことは一言も言わないので、拍子抜けしたのもほんとうだ。 「…また来よっかな」  仕方なく、聴こえるように呟いて、ノアを見上げる。そう、彼と目を合わせようと思ったらこの、顎を少し上げるワン・クッションが必要なのだから煩わしい。 「いつでもどうぞ」  受け入れるというよりは、拒まないニュアンス。いかにもクリスチャン的だと思う。ノアは日差しに眩しそうに目を細めて、鷹揚に頷くだけだった。

ともだちにシェアしよう!