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第3話
日曜日は、用がなければ昼過ぎまで寝ていることが多い。
用のレヴェルは様々だが、シェーバーの刃を買い替えるとか髪を切るとかに始まり、たとえ人と会う約束をしていても、それがプライヴェートな約束であればあるほど寝過ごしてしまっても構わないと思っているような、ルーズな性格は自覚している。
予定、になりそこなったままの考えが、頭のどこかにぼんやり引っかかっていたのだと思う。ベッドからこぼれていた右手を動かし、冷たくなった指先で、顔に落ちかかった髪をかき上げる。
「……あー」
喉痛い、とちらりと感じたが、乾いているだけのよう。
しばらくベッドの中で丸まっていても、二度寝の誘惑は訪れそうになかった。
主電源を落としていたらしく、リモコン操作に反応しないテレビに手を伸ばして、スイッチを入れる。点ける必要のない理由がない限り、部屋のテレビは点けっぱなしでいる癖がある。
朝のニュース・プログラムの、小ボリュームのナレーションを聞き流しながら、ちらちら光量を変化させて切り替わる画面を眺める。日曜のニュースに目新しいトピックはなく、セ・リーグにもパ・リーグにも熱心に応援する球団はないので、ペットボトルのミネラルウォーターを三分の一減らしたのをタイミングに立ち上がった。顔を洗って、産毛程度の存在感のひげに剃刀を当て、髪はタイトにするのをやめてブラシを通すだけにする。ムースをつけるとウェーブがきつくなるので、ラフな恰好にはあまり似合わないから。簡単な身支度はすぐに終了し、車のキーを持って部屋を出た。
駅前まで出て、その駅の前を通過して150メートルほど走る。
コンビニの駐車場にそのまま前向きで駐車して、店内に入ると、見知った顔の店員がレジに立っていた。
「あれ、慧斗(けいと)くんだ」
一見学生アルバイト風だが、正社員、しかもチーフだと聞いている。
「あ。おはようございます」
「おはよー、今日は朝から?」
「…最近、シフト不規則なんで」
ちら、とクールな目元をくつろげて笑う彼の答えは、簡潔で素っ気ない。人見知り気味のキャラクターも、お気に入りの理由のひとつだ。特にこの系列のコンビニを贔屓にしているわけではなかったのだけれど、慧斗と知り合ってから何となく、他の場所でも看板を探すようになってしまった。
「せっかくの日曜日なのにね」
サービス業の休日はたいていウィーク・デイで、土曜や日曜に休めることはほとんどないだろう。彼の恋人は日勤と夜勤を繰り返す不規則な就業スタイルだが、日曜だけは固定の休日なのだ。
「はあ、まあ、でも…」
慧斗は摂の言葉を考えるように、それから何を言おうか言葉を探すように口篭もり、
「…しょうがないっつうか」
結局はそれだけコメントして目を伏せる。
「いいなあ、慧斗くんは。乾も」
摂の言葉にまたちらりと笑うだけの控えめな青年は、あの、飄々とした後輩を篭絡した人物だった。
レジ横の保温ケースの中から、コーヒーではなくコーンポタージュをチョイスする。発作的に飲みたくなる飲料は、摂にとって朝食代わりにじゅうぶんなボリュームだ。車内に常備している粒ガムのボトルが残り少なくなっているので、決まって買う銘柄のボトルを一緒にレジに出す。
「二見さんは、今日はどっか…?」
手早くスキャンして、小さな袋に商品を入れながら、慧斗がぼそりと訊いてくる。
ほんとうはまだ、決めかねていたのだけれど。
「……俺はねーえ、教会」
答えてしまったことで、本日のプランが決定した。
途中までの、大型ショッピング・センターへの流れから外れてしまえば、あとは爽快なドライブになる。道を憶えるのは得意だし、海沿いの道路から見ても、高台の教会自体が目印になっているのだから便利だ。その教会へ続く長い上り坂を、後続車もいないので気分に合わせてのろのろと上り、敷地に入る。結婚式の時に使った広い木陰のスペースには他に何台か車が停められていたので、並ぶように停めてエンジンを切った。寄り道をしても一時間程度の所要時間。なんて理想的。
ジャリ、ジャリ、歩く度に鳴る玉砂利に、なんとなく忍び足になってしまう。
開け放たれた礼拝堂の中は、遠目にもたくさんの人で溢れていた。ジャスト、オン、タイム、で礼拝の真っ最中。心境としては、開始時間に遅れて教室に入れない学生の、ばつの悪さに似ている。
数段の石段を登り、扉に半身を隠すようにして中を覗く。
「入って」
思いもよらず背後から声をかけられて、心臓が一度、大きく跳ねる。けれどこの落ちついたトーンには、摂を安堵させる効果のほうがより多く含まれていた。
ゆっくり振り返った先には、ノア。摂をこの場所でエスコートできる唯一の人物に、目線と首の角度で問う―――いいの?
「出入り自由、だから」
その代わり、そっとね。立てた人差し指を唇に当てて、それからその人差し指で礼拝堂の中を指すのに従って、摂は黒っぽく光る床板を踏んだ。
最後列の空席に、並んで座る。
聖壇に立つ堀込牧師は素知らぬふりで説教をしながら、着席までの間、摂にしかそうと判らない目配せを寄越していた。大ぶりのジェスチャーを交えながら話しているのは、おそらく筋立ったものではなく、世間話のようにも聞こえる。礼拝に集まっている人々もごくリラックスした様子で、厳粛な雰囲気は薄く、さわさわと人声に満たされた堂内が心地よい。
「なぜ礼拝に?」
摂が座りやすい姿勢を確保するのを待って、小声のノアに訊かれる。とても基本的な質問事項だ。摂は同じように小声で返した。
「また来るって言ったら、どうぞって言われたから」
「そう」
前列に座る、ほんの小さな男の子から送られる熱心な視線に気付き、手を振ってやる。遅れてやってきた見知らぬ男、それも茶色い髪と目とあっては、彼の気を引くのにじゅうぶんなのだろう。男の子は恥ずかしそうに母親に隠れながら、五本の指をうまく動かせない不器用な手つきで、手を振り返してくれた。バイバイ、唇だけで告げて、コミュニケーション終了。
「賑わってるね、いつもこんな?」
「日曜礼拝は、特別」
可笑しそうにこちらを見ていたノアは、簡単にそうとだけ説明すると、聖壇の父親に身体ごと向き直った。
「…あ、車。向こうに勝手に停めちゃったんだけど」
「どこでもどうぞ」
「―――では、聖書を開いてみましょう」
説教は、イントロダクションからテーマへ移るようで、あちこちで本を開く音が重なり合う。
「先週の続き、ガリラヤ湖のお話をします。たくさんの奇跡を見てきた湖です…東西南北に二十キロほど広がっている…猪苗代湖よりひとまわりくらい大きいと言えば、想像できる方もいらっしゃるかな」
小学生くらいの年齢の子供が多いからだろう、堀込牧師の言葉はまず子供に向けて、それから徐々に大人に向けて変化する。
「ね」
「ん?」
「…これ、長い話?」
開く聖書もないので、摂は自由な左右の手で頬杖を付きながらノアを見た。こらえ性のない摂に対して彼は遠慮なく破顔すると、とん、椅子の背凭れか摂の背中か、ちょうどその境目くらいに触れて、摂を促す。
「出よう」
「いいの?」
出入り自由だと、言わなかった?黒ぶち眼鏡の中で細められた目の意味を勝手に想像し、摂はノアに続いて礼拝堂を出た。
「車って、あの手前のでしょう?」
石段を降りながら、ノアがブロック塀の方向に首を伸ばす。塀の向こう側に沿って大きな木が生えているので、一面が木陰になっている。そこに停められた車のうち一台は、摂のものだ。
「ん、そう」
「わぉ」
揶揄うように感歎してみせたノアは、ゆっくり口元を引き締めると、少しシリアスな顔になった。
「なぜ…教会に?」
「そりゃ俺は、信仰を持たないけど…」
さっきの質問とのわずかなニュアンスの違いに、叱られているような気分になる。心外な思いで反駁しようとする摂を、ノアは素早く執り成した。
「違うごめん、そんな意味じゃない。ここは気に入ったのかなと、思って」
「…ああうん、海見えるし、空が近い。それにすっごい青くて…えあうぇい・ぶるーって呼ぶのかなあ。これって不純?やっぱり戻ってアーメンくらいは合唱しなきゃだめ?」
両手を組む仕草は、媚を売るためにすることだってある。目の前のクリスチャンは苦笑がちに首を振って、それを許した。
「…この、真上。飛行機の通り道なんだ。ちょうど、こう」
すい、長い腕が大きなモーションで、空に一本の直線を描く。
「大きな飛行機雲ができる」
「へえ」
「うるさいけどね」
ノアの描いた見えない線を、目で追う。飛行機の音も、飛行機雲も、彼にとっては日常的な存在なんだろう。
「ずっとこの町に?」
「大学は東京だったけど、それ以外はずっと」
「迷わなかった?」
「……ちょっとは、ね。でも愛してる」
彼はずっと以前からこんなふうに、生まれ育った町に対してストレートに愛情を感じていたんだろうか。穏やかでつつましい、ありふれた町だ。この土地に戻ることが、彼にとってどれほどの決定だったのかは判らない。けれど今の彼は、ごく自然に自分のスタンスを受け入れているのだなと摂には思えた。
「今いくつなの?」
「歳?二十六」
「今年で?」
「ええ」
「そっか。いっこ違いなんだ」
独特のおっとりした雰囲気が、ノアを年下にも年上にも感じさせていた。実際に一歳違いと聞いても、感覚的なものは変わらない。
「二十五?」
摂はといえば、自分ではベイビー・フェイスだと思わないのだけれど、年より下に見られることが多い。
「残念でした、二十七。先生は楽しい?」
「……ああ、うん、楽しいのかな。幸いなことに」
「とっても幸福だと思う。そうだ、眼鏡、その眼鏡は普段から?」
「職場ではたいてい、コンタクト。休みの日は面倒なので」
「バスケ歴は?」
「小、中、高で十二年」
「ポジションはもちろん?」
「シューティング・ガード」
「俺も中学までやってたよ、ポイント・ガード。経験者だとさ、顧問とかやらされない?」
「ご明察。副顧問ですけど、ちゃんとコーチがいるから……」
言葉を切ったノアが、ふふっ、耐えきれないといった様子で肩を振るわせ、俯き、また肩を振るわせる。
「ねえ、このペースで質問は続くんだろうか…」
くぐもった笑いはギブアップの合図で、摂はそれに唇を尖らせて反論した。
「だって。うまくできないんだ…知りたいこと訊くためのプロセスが、うまく踏めない」
「うん、難しいよね」
「そうなの、難しいの、俺には。あんたは、俺に質問はないの?何でも訊いてよ」
不貞腐れた摂の声に、機嫌を損ねたのだと理解したノアが、宥めるように片手を挙げる。
「…じゃあ、ひとつ」
「ひとつ。興味ないんだ」
「そんなことない。俺をノアと、呼んでくれる?」
―――そう、コミュニケーションのために最も重要なことの一つは、呼称だ。ノアの手のひらに、手の甲で軽くタッチして、摂は笑った。
「せつ、ってゆったら、いいよ」
日曜礼拝は、午前十時きっかりに始まるのだという。
礼拝は日曜だけでなく毎日行われていて、月曜から土曜までは、朝七時から。礼拝堂は何時でも利用できるので、反対にその時間さえ外してやってくれば、自由にお祈りできるのだそう。
「日曜礼拝には、おまけがあって…」
悪戯っぽく言ってノアが、首を巡らせる。視線の先には、住居から礼拝堂へ、十数人で列を作って歩く女性の集団が見える。彼女らのうち数人が、ゆりかご大のかごを抱えている。最後尾の女性がこちらを向いた瞬間に、摂は確信することができた。
「いたの、ノア」
「いなくなってもいいけど?」
「午後の教室、手伝ってくれてもいいけど?」
「はい、はい」
ノアの口調を真似て彼を苦笑させる女性は、教会のオルガニストで、ノアのママ。後ろで束ねた、濃く淹れたコーヒー色の髪はほとんど黒髪といってよく、イギリス人と聞いて思い浮かべるイメージよりは、移民的でハイブリッドな印象が強い。
「こんにちは。お友達?」
流暢な日本語だが、イエスかノーで答えるには、少し複雑な質問だ。
「初めまして、二見と申します」
「お会いしたことがあるわ、ね?」
「先週、同僚の結婚式でこちらに」
「そう、そう。由香ちゃんの旦那さまの、お友達の席」
「ええ。素敵な結婚式でした、とても」
「ありがとう。私にとっても夫にとっても、その言葉が一番」
にっこり笑った彼女は、抱いたかごに被せた布の下から、まだ温かいロールパンを二つ摂に差し出した。
「あなたにも神の恵みを。また来てね、また来たくなるくらい美味しいから」
ロングスカートの後ろ姿を見送りながら、ノアを見上げる。
「おまけ…?」
「そう。婦人会が朝から集まって作る、焼きたてのパン。ちなみに俺は生まれてからずっと、日曜の昼はこれなんだけど」
「あはは」
「……摂は」
「うん?」
「摂は猫をかぶるね」
非難するトーンではなかったので、黙って許すことにした。
冷めきっていないパンはとても柔らかく、少しでも力を入れるとへこんだまま戻らなくなりそうだ。バターの芳香を鼻で確かめてから、一口齧る。手作りというのはなんで、こんなに美味しいのだろう。
「ああそうだ、もうひとついい?」
「ん?」
母親からパンを与えられなかった息子の言葉だと解釈し、齧りかけのパンを譲渡しようとする摂の動作を、ノアが押し留める。
「違うって。質問」
「あうん、なに?」
「また来る?」
疑問系ではあっても、またおいで、と同義の文句だった。
いつでもどうぞ、だなんて大らかで洗練されていて平均的な言葉を、一度は吐いた彼だ。
「…どうしよっかなあ」
先週の意趣返しだと、わざとらしく迷う態度を取る摂を、ノアが揶揄う。
「来週はデートだって?」
「あーそう、フリーだからね」
何回かに一度、彼の冗談は呆れるほどつまらなくなる。肩を竦めて横目で見ると、彼も同じように肩を竦めて、それから眉を下げた。
「睨まないで。俺もそう、フリー」
そー・ふりー。それはとても、美しい韻律ではあったけれど。
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