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第4話

「What’s this?」  あぽう、ハイトーンの合唱が続く。  大学ノートを横にしたようなサイズのカードには、赤と黄色と緑のコントラストがきつい、いびつなハート型のイラストが描かれている。APPLE、りんごの絵。 「Yes,great.Next… what’s this?」  カードを一枚後ろに送り、次に出て来たイラストをひとりひとりに判るように見せる。限りある教材の中の見慣れたイラストなのだろう、子供たちはまるで骨髄反射のような素早さで、ふぃっしゅ、と叫ぶ。半円を描くように集合した彼らの中でひとり、もじもじとこちらを見ては目を伏せる少女を除いて。摂は彼女の目線を捕まえて、魚のカードを振りながら笑いかけた。 「Hey,come on.Don’t be shy」  おしゃぶり代わりにしていたフリル付きのブラウスの袖から口を離した彼女が、小さく呟く、FISH。彼ら幼児の言語感覚は、ハイ・クウォリティだ。 「Fantastic」  彼らに賛辞を送り、次のカードをめくろうとした時。ゴリゴリゴリ……外を通過する音に、ふと、気が反れる。  教会の敷地内はほとんどの部分に砂利が敷かれているので、車が通るとタイヤがそれを押し潰す音ですぐに判るのだ。すぐにエンジン音が消え、しばらくするとガラス戸が開けられた。 「のあせんせー」  振り返った子供たちが口々に彼の名を呼ぶのに笑って応え、ノアが不審そうにこちらを見る。声をかけあぐねているようなので、 「お帰り」  困らせるような挨拶で迎えてやった。 「はい、ただいま…何やってるの」  まずは律儀に返事をするところが、いい。 「臨時採用で、英会話教室の先生」  簡単な状況説明でじゅうぶんだったらしく、ノアは肩をすくめて、入ってきたばかりの戸口から一歩外に出た。 「…母と、その夫は?」 「すぐ戻ってくると思うよ、ララ先生、小包受け取りに行っただけだから。堀込先生は、礼拝の後ご挨拶しただけだからなあ…」  この教会の人々はそれぞれ、先生、と呼ばれている。堀込牧師は、堀込先生。牧師に対して先生と呼ぶのは、一般的なことらしい。彼の伴侶であるララは、住居の一角に増築したこのプレハブ小屋でピアノと英会話を教えているから、ララ先生。ミドルネームに世界一美しい宝石を持つ女性の息子は、本職が高校教師なので、ノア先生。ノアは時々、英会話教室でアシスタントをすることもあるらしい。今の摂のように、イラスト付きのカードを持ったりしながら。 「いつの間に仲良く…」  呆れ半分、感心半分、といったニュアンスかな。 「俺、人見知りないもん」 「でしょうね」  彼は厳かに頷くと、目線で摂に退出を促した。    もともと寝て過ごすために、滅多なことでは予定を入れなかった日曜だけれど。今は礼拝のために空けられている気がする。  寝坊ばかりしているので、通い始めて間もないというのに遅刻の常習になりそうなのだが、開始時刻を守って礼拝に出席した日に限ってノアが日曜出勤だったのだからうまくいかない。昼過ぎには帰ってくると言うので、待ってみようかなと呟いた時、本日の英会話教室アシスタントの役割が摂に与えられたのだ。  ララ・ダイアモンドはキュートで冗談の好きな女性である。遠い祖先がイングランドから新大陸に移動したのが摂の祖父のルーツだが、そのアングロサクソンと日本人のクウォーターという単純なケースと違い、イギリス系には少なくないという戦争移民の祖父母を持つララは複雑なハイブリッド。ノアにも薄っすらとペルシャ系の血が存在すると聞いて、彼に感じるエキゾティックさの理由を知った。 「あ、バス」 「うん?」  教会の入り口に、古ぼけたバス停がある。まだ役目を果たすのだろうかと不安な佇まいのそれに、オレンジ色のバスが徐行して、停止する。この辺りの人なのだろう、スーパーの袋を下げた老婦人がゆっくりステップを降り、地上から運転手と二言三言遣り取りをしたあとバスが排ガスを吹いて発進するまで見送って、摂はノアを見上げた。 「ちゃんと停まるんだ」 「停まるよ。ここで暮らす、車持ってない人にはバスが欠かせないんです。バス停の名前、光ヶ丘キリスト教会前っていうんだ」 「へーえ、まんま」  頷く摂に笑って、ノアが礼拝堂の扉に手をかける。 「どうぞ」  集会場のような役割を果たすこともあるここは、午後に結婚式の予定が組んであったり、地域ボランティアが使うことがあると、その時間だけ入れなくなる。ドア・ボーイが開けてくれた隙間からがらんどうの礼拝堂に入り、隣り合って座わる。話はじめるまでの一瞬の沈黙が、摂はとても苦手だ。催促するように上目に見ると、それに応えてノアがゆっくり口を開いた。 「…聖書は?読んでみた?」 「ちょっとずつ、ね」  りる、ばい、りろ。この時のジェスチャーは、右手を水平にして、それを小さく左右に揺らせばいい。今も車の助手席に道路地図と一緒に置いてある聖書は、英文学科の学生だったノアが使っていたものだ。何度も開かれて傷んでいるものの、書き込みやアンダーラインはひとつもなかった。 「そう」  摂から返ってきたのが良い答えでなくても、特にがっかりした様子ではない。午前中に出勤していたからだろう、コンタクトレンズなので、目の光り具合がよく判る。  摂はそっと右手を上げて、ノアの首の後ろ、尖った骨より少し上の部分にあるチェーンの留め具に人差し指を当てた。摂の手を横目で追っていたノアが、それでも意外だったようで、不思議そうに目瞬く。 「…ん、なに?」 「これ、ロザリオ?」  彼の皮膚に留め具を小さく一度押しつけて、手を離す。  丸首のカットソーを好んで着ている彼の首元にはいつも、光沢のない、白っぽいチェーンが掛かっているのがちらりと見えている。アクセサリーには興味のなさそうな男なので、その部分だけが他に比べてアンバランスに思えて仕方ない。  ノアは笑いながら、チェーンに指を掛けて、服の中からそれを引っ張り出した。チャームになっていたのは想像どおりの柔らかい白、乳白色の十字架だ。大きな手のひらが、小さなそれを握り込む。 「……摂は、カトリックの教会に通っていたことが?」  数秒思案するような間の後の質問は、摂にとって突然で脈絡のないものだった。 「…あーうん、子供のころちょっとだけ向こうに住んでて。たぶん、カトリックだった、のかなあ」  その上はっきりとした答えはなく、曖昧に頷くだけになってしまう。西海岸の、ロサンゼルスに住んでいた頃。平日は幼稚園、日曜は教会に通ってた憶えはあるが、住んでいた家の間取りさえ曖昧なほど遠い記憶なのだから。 「洗礼は受けた?」 「洗礼名があるって話は聞かないけど…どうなんだろう。問題?」  キリスト教の中に、カトリックとプロテスタントがあるのは知っている。プロテスタントがその名の通り、カトリックに反抗して生まれたものだと言うことも。不安と、少しの気まずさを感じてシリアスになる摂を、ノアは笑ってリラックスさせた。 「いや大して。結婚するならともかく」 「誰が誰と?」  間の抜けた訊き方をしてしまったのは、彼の説明が足らなかったせいだ。摂に倣うようにごく僅かな角度で首を傾げたノアが、すぐに気付いて言葉を足す。 「仮定ですが。摂が結婚式をここで挙げるなら、って意味」 「あぁ」  摂の失笑を、彼は理解のそれだと思っただろう。 「うちはね、ロザリオってあんまり言わないんだ」 「そうなの?」 「うん。クロスとか、まあ、十字架って単純に…」  十字架を握り込む長い指に指で触れて、開くようにとお願いする。抗わずに開いた手の中から、摂は丁寧にそれを奪った。 「イエスさま、ついてないんだね」 「ええ。シンプルなものでしょう?」 「ここもシンプルだもんね、マリアさまもいないし」  見まわす堂内、聖壇には十字架があるだけでマリア像はない。 「うん、たぶん、摂が通ってたのはカトリックの教会だと思うな」 「そっか。俺、なんにも知らないね…」 「そんなふうに思う必要、ない」  無知な摂を、ノアは決して変えようとしない。フェアーな彼の態度は素晴らしいと思うが、不満に感じることも多いのだと気付いてくれているだろうか。  象牙でできているのだと思う。滑らかな手触りの十字架には指紋を着けるのさえ躊躇われて、角と角を、指先で摘む恰好になる。 「これ、いつもつけてるから。すっごい気になってたんだ」 「はは。俺も良い信徒ではないけど…ないから、かな。クロスだけはしてないと落ちつかない」 「ふうん、良い信徒じゃないの?」 「まあね」  にやり、片頬だけで笑うやり方も、彼がやるとどこか優等生然として見えた。    水曜の夜。定時は18:00だがそんな時間に上がれるわけはなく、特に月報の提出期限を次の日に控えた夜は、残業時間も長引く。営業職とはいえ報告書や売り上げデータの作成などの事務仕事もそれなりに多く、平日の夕方以降はデスクワークに時間を裂くのがいつものことだった。他の営業マンを夕食に送り出し、気分転換に開けた窓も、高層階のため数センチしか開かないせいで大した効果もない。  報告書を書く手を止めて、Yahoo!のホームを開く。「カトリック プロテスタント 違い」のスリー・ワードで検索をかけてみると、主にヒットしたのは結婚式の紹介ページで、けれどそこに書かれたことは知りたいと思っていたことにじゅうぶん答えるものだった。  ミサと言った摂に対して、ノアは礼拝。ロザリオに対してクロス。マリア像の有無なんかも、代表的な違いらしい。 「あれ、残業ひとり?」  突然パーテーションの向こうから声をかけられて、両肩がびくりと跳ね上がる。 「…ううん。みんな飯食い行ってる。いぬいー、計算式壊れたかも」  振り返って後輩の長身を確認しながら、Win+Dでウィンドウを全て閉じて、その中からエクセルファイルだけを開く。ブースに入ってきた乾は摂を見ようともせずに、さらりと言った。 「先月のデータからコピペしちゃいなよ、計算式だけ」 「や、フォーマット変わってさあ。一円単位だぜ、今度のやつ」 「意味ねえな、それ」 「だろ?損益計算書はまあいいけど、日報なんてクソだよねこんなもん。誰が見てんだっつうの…」 「社長が見てないのは確かだと思うよ」  報告書には、月報、週報、日報の三種類があって、そのうちの日報は言葉どおり、誰が見ているのかも判らない代物だ。真面目にやるのもばかばかしいので、毎日少しずつ言葉尻を変えて、数値をいじる程度で済ませている。月報はといえば不真面目に取り組むわけにゆかず、知らない間にプロテクトが解除されてしまったエクセルファイルが数値を入れても変化しないのに、苦戦しているところだった。 「……ところで、なんで来たの?これから夜勤?」  乾がワイシャツの上に羽織っていた作業着を脱いで、向かいのパソコンに座るのを眺めながら訊ねる。個人の持ち物ではなく、このフロアに設置されたデスクパソコンの、メイン機だ。 「夜勤の途中だっての。LANのシステムがバグったつうから来たんじゃん」 「あ、そうそう。システム部に電話したら部長が出てさ、乾がいただろーって」 「本社からの操作で治せんのに…あのおっさん」  お互い本社勤務の経験があるので、部長クラスまでなら、実際に会ったことのある人が多い。 「二見さん計算式だけど、メールの添付に元データあるだろ?そっからコピーできる」  三十分近く格闘していた問題をあっさり解決したのは、やって来たばかりの後輩だった。 「あーそーだー、そうだよー」  情けない声を上げながら、背凭れに盛大に仰け反る摂を、乾はやんわり労ってくれた。 「らしくないね、お疲れ?」 「経理部行けって言われたら無理だな…一日中こんなこと、やりたくない」 「離さないって、営業部が」  お世辞をそうと感じさせない後輩の言葉に、一瞬遅れで苦笑した時、デスクの上で携帯電話が震える。二十四時間ほぼマナーモードの機体は、点滅の色でメール着信を知らせていた。スライド式のそれを開いて、メイン・ディスプレイを見る。 「お久し振りです」  件名はごくありきたりなものだった。この人物からメールが来るのは、一ヶ月までは空いていないが三週間振りくらいではあるので、久し振りという書き出しは間違っていないだろう。 「しばらく会っていませんが、お元気ですか?ゴルフやってますか?日曜あたり、久し振りに一緒に周りたいね。秋が終わらないうちに〓」  〓の部分は推測するしかない。笑い顔、汗、それとも紅葉とか葉っぱの絵文字?機種依存文字を使って気付かないようなメール下手なところを、微笑ましく思えることもあれば幻滅しそうだと思ってしまうこともある。 「誰?」 「露木(つゆき)さん、M電の…」  返信メールを打つのは面倒なので、アドレス帳のマ行を探す。M電工露木、から発信ボタンを押し、しばらくコール音に耳を傾ける。向かいの乾が煙草を取り出すのを睨みつけると、彼も気づいたようで、苦笑がちに肩をそびやかしてケースをしまう。確かに摂自身は嫌煙家であるが、そうでなくても禁煙オフィスなのだ。疲れているのは後輩も同じなんだろう。 『二見さん?』  電話の向こうの、クリアな音声。落ちついた男の声だ。 「…お久しぶりです、今大丈夫ですか?」  彼と話す時は、なるべく柔らかい発声をと気をつける。 『平気。久しぶりだね、まだ仕事中?』 「はい。あー、あの、日曜なんですけど」 『うん』 「ごめんなさい、ちょっと予定が…せっかく誘ってくださったのに」 『あ、そうなの?残念。二見さん、早めに誘わないと予定入っちゃうんだよね』  ふふふ、穏やかな笑い。摂の言い訳が嘘でも本当でも、ゴルフの誘いに応じないくらいで気を悪くするような人ではない。 『ご飯どうですか、じゃあ、近いうちに』  それから、一度目に応じてもらえなくても、次を約束させる人でもある。 「…ええぜひ」 『よかった、また電話します。声だけでも聴けてよかった』 「僕もです」 『仕事、無理しちゃだめだよ。線細いんだから、倒れたら大変』 「ええ、はい…じゃあまた、失礼します」  親しみを込めた露木の言葉に微笑の息を返して、電話を切る。ここにノアがいたら、猫を被るね、とまた面白そうに言ってくるだろうか。  得意先の役職者であり、仕事を越えた付き合いもあるひと。距離は遠いより近く、より近くなる可能性を含んでいて、それは決して心地の悪いものではないのだけれど―――。    カチン、携帯電話を閉じたと同時に出たため息を、どうなふうに解釈したのか。 「上手くいってないの?」  誰かの灰皿に煙草を押しつけながら、いつからだろう、乾がこちらを見ていた。 「んー、そんなことないよ…てゆうか、上手くいくって別に」  なんにも、と口の中で呟く。 「M電の課長。若いし、顔もいいじゃん」  乾は構わずに自分勝手な見解を述べて、反論を待つ構えだ。摂はむっと、唇を尖らせる。 「何が言いたいの、ユーヒくん」 「契約取ったあとってやっぱ持て余すのかなあ、と」 「ほんとむかつく、そうゆうとこ。継続的なアフターケアーも必要なんですう」 「そうですね。じゃあなんで?」  考えることもせずに断わったのだと、彼には知られている。 「予定があるって、言ってんじゃん…」 「出不精が?どこ行くの?」 「教会」 「ははは!」  義理堅い慧斗は恋人に、この前の話をしていないようだ。慧斗本人も、摂の言葉を今の彼のように冗談だと思ったからかもしれない。 「二見さんさあ、懺悔することいっぱいあるだろ」 「まあねー」  ふん、と拗ねる摂にも、後輩は含み笑いをやめなかった。

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