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第5話
礼拝が終わって、居残っていた人もぽつりぽつりと出て行った後の、誰もいなくなった空間が好きだ。礼拝の最中は一番後ろの劣等生席が指定席の摂だが、自由に選べるならば、前から三列目の、左側の席の右端、つまり通路側に座ることに決めている。
くしゅ、くしゅんっ…。
高い天井に、くしゃみの音が二回続けて反響する。三発目が予感に終わり、むず痒い鼻を軽くこすっていると、背中から決まり文句がかけられた。
「Bless you」
くしゃみは神様からの警告の合図とされているので、くしゅん、とやった人に対してはたとえ知らない相手でも、こう言ってあげるのが良い。言われたほうはもちろん、彼ないし彼女の厚意には礼儀正しく応えなければいけない。今の摂ならば、通路を挟んで隣の席に腰を下ろすノアに。
「Thank you…ほんとに効きそう、こんなとこだと」
神様の恩寵を受けるには、うってつけの場所だろう。聖壇を向いていた身体を通路側に動かして、彼と向かい合う。
「寒くなってきたぁ…」
十一月に入ってずいぶん、寒い日が多くなってきた。朝、出勤する時に車のクリープが強いのに気付いたり、収納からヒーターを出したり、段々と冬に近づいていく感じ。教会では今週から、ストーブを出すことにしたらしい。礼拝の間は点けられていたのだが、今はもう消えていて、灯油の残り香をかすかに嗅ぎ取れるだけだった。
「そうだね。風邪ひいた?大丈夫?」
「だいじょぶ。でも冬んなったらふつうに雪降るんだもん、俺こっち来てびっくりした。いつスタッドレスにしようか考えちゃうよ」
実際に住むまでイメージにはなかったのだが、冬の雨が簡単に雪に変わってしまう土地だ。去年はそれを知らずに、準備不足のまま冬を迎えてしまった。少々のブランクを除いて二十六年間ここに住み続ける男が、ゆったりと笑う。
「十一月はさすがにまだ、必要ないよ。俺なんか年によってはチェーンで済ませてしまうけど」
「いける?」
「まあ、年によって」
断言はできないなあとまるで参考にならないことを言って、彼は摂をがっかりさせた。うへえ、失望を隠さない摂の心情を察するのはきっと簡単で、ノアが少し気の毒そうに、指先を顎にかけて微笑する。
「冬は苦手?」
「俺はねえ、寒いのも暑いのも嫌い。ノアは冬が好きなんだ」
「すごく寒い日に、厚着して出かけるのが好き」
目の前のノアの服装はTシャツにカーディガンだが、彼は着膨れた自分を想像しているのか、楽しそうに目を細める。
「…変わってる」
「そう?とても神聖な季節じゃない?」
彼との会話は、思いも寄らないフレーズを聞くことができるから刺激的だ。神聖、だなんて自分では使ったことがないかもしれない。
「クリスマスもあるし?」
「ああ、そうかも。そうだ摂、暇だったらクリスマス礼拝にもおいで」
「はは、気が早いなあ」
揶揄うつもりが、クリスチャンの彼を前にしては大した冗談にもならず、反対にこちらが笑わされてしまう。
十一月も半ばなので、気の早い街だってクリスマスムードになるのはまだ少し先。WHAM!のクリスマス・ナンバーがラジオでかかり始めるのもしばらく先のことで、今年は一度も聴いていない。カムアウトする前のアイドル時代の楽曲は、ジョージ・マイケルにとって忌まわしい過去の産物だろうか?
「一年でいちばん特別な礼拝だから…もう少ししたら、賛美歌の練習も始まるよ」
「へえ…ノアは、歌はじょうず?」
「うーん、どうだろう」
空中を睨んで、やや照れたように頬を緩める。自信あり、のよう。ノアのように慎み深さを持たない摂には、照れる必要のないことだ。
「俺は上手いよ。賛美歌はー…知らないけど」
悪びれない摂に、腕組をしたまま破顔して、ノアは少し背筋を伸ばした。
「そうだなあ、Amazing Graceは?」
「あ、知ってる、えっと…」
たくさんの現代アーティストも歌っている、有名な曲だ。出だしだけをハミングして、ちらりとノアを上目で見る。素晴らしい、その通り、と軽く頷いて、次の問題。
「What a friend we have in Jesus」
「えー、知らない」
「絶対知ってるって、有名。邦題が付いてるんだけど、思い出せない…」
「じゃあ歌って」
「あー…」
ノアは困ったよに語頭を濁し、数秒、思案気味に目を伏せる。それから柔らかい声で、
「What a friend we have in Jesus…」
と口ずさんだ。出だしですぐ、摂にはその邦題が思い出せるメロディーだ。
「All our sins and griefs to bear…What…」
最初の何小節かは歌詞を、途中からは忘れてしまったのだろう、曖昧な鼻歌になる。実にラフな歌い方だけれど、癖になっているようなごく控えめのビブラートがとても音楽的で、美しい歌声を想像させずにはいられない。歌えと命じたくせにいつまでもストップをかけない摂に、シンガーは自分からメロディをフェードアウトさせた。
「どう…?」
絶対知ってる、なんて言い切ったくせに、眉を下げて訊ねる調子が自信なさげなのが可笑しい。うっとりした気分に水を注したと怒るのは、彼にとってあまりに理不尽だろう。
「……知ってるよ、星の世界」
「ああそう、そうだ」
「自然教室で歌った」
「うん、キャンプ・ファイヤーで」
「そうそう、懐かしいなあ。これも賛美歌だったんだ」
英語と日本語では歌詞がずいぶん違うので、摂はこの歌をどこかの民謡だと思っていた。ノアは意を得たように数度、続けて首肯する。
「色々ね、違う形では浸透しているみたいで。蛍の光も、そうだよ」
「ほんとに?俺、あれの下パート歌える。高校ん時の卒業式、男子は下パートだったから。いざーさらーあばー、ってなるんだよね」
「そうなの?」
「そう、なの」
ふうん、生真面目に頷いたノアが、ややあって首を傾げる。
「それ…仰げば尊し、じゃない?」
「あれ?あ、そうか」
摂にとって人生で一回きりのあやふやな記憶でも、教師にとっては耳に慣れた旋律と詞なのだろう。どちらともなく失笑すると、穏やかな沈黙が訪れた。
摂はくすん、と鼻を鼻を啜って、開け放った扉の外に首を巡らせる。車の中に置いてきたジャケットを、取りに行った方がいいかもしれない。遅れて扉を振り返ったノアと、首を元に戻す摂の目線がかち合う。不意のランデブーに、おや、と黒目が光るのを見返して、摂はいちばん重要なことを訊くことにした。
「ねえ。ジンジャーマン・クッキーはいつ焼くの?」
主にはツリーの飾り付けのために作られる焼き菓子が、子供の頃、大のお気に入りだった。
「あはは、わかった、ちゃんと取っておいてあげる」
◇
◇
◇
ノートパソコンには、それぞれ仕事用とプライヴェート用のアカウントで設定されたメーラーが二つインストールされている。仕事用のアドレスには取り引き先の担当者からの直接のメールや、会社からの転送メールなどが送られてくる。プライヴェート用は、いくつかのメールマガジンと、通販会社からのメールが主だが、それでも時々はそれ以外のメールが送られてくることもあった。
発信時刻は今日の午前中。sakura-k-cherryから始まるメールアドレスには、hikaru.jpgというファイル名の添付あり。疑う余地はないので迷わずそのメールを開き、ティーバッグで淹れた紅茶の湯気を顎で受けながら、画面をスクロールした。
姉からのメールはごく一般的な書き出しから始まり、近況をいくつか並べたあとに弟を気遣う文章と、P.S.お正月休みには帰ってきてね、で締めくくられていた。添付ファイル名のhikaruはひとり息子の名前で、母親に後ろから抱きすくめられた少年のアップ画像だ。今年の正月以来会っていないので、記憶にある彼よりずっと、顔立ちがはっきりしている。
テレビの上に置いてある電話を取って、短縮ボタンを押す。ひと口紅茶を啜る間に、電話は繋がった。
『せっちゃん、メール見てくれた?元気?』
いくらナンバー・ディスプレイでそうと判るからって。彼女らしい、と笑ってしまう。
「うん、元気、メールありがと。さくらちゃんは元気?」
『元気だよ。せっちゃん、今日お仕事は?』
「土曜日だから、休みの時もあるんだ。ひかる元気そう。来年小学生?でっかくなったね」
『そうなの、ひかるザウルスだよもう。あ、声聞いてあげて?ほらひかる、もしもしー?って』
「ひかる?叔父さん、判る?」
まだお年玉のありがたさが判る年ではないが、それでも摂のことは憶えてくれていたらしい。家系なのか、人見知りのない彼と二言、三言話して、さくらに代わってもらう。
『ママ、せっちゃんから』
摂は姉の一家全員に、こう呼ばれているのだった。
「すっごい、しっかりしてるね」
『そうかなあ。せっちゃんの時のほうが、ちゃんと喋ってたよ。ねーえ、せっちゃん』
「うん?」
『ひかるに、いとこっていないじゃない?わたしたち姉弟二人だし、向こう、一人っ子だし。せっちゃんはそろそろ、そんなお話ないの?』
姉が無邪気なのは判るが、この種の質問にはほんとうに、苦笑するしかない。
「おねえちゃん」
『なーに?』
「太ったでしょ」
それから、添付写真を茶化して話を反らすのが精一杯。受話器の向こうから、拗ねた気配が伝わってくる。
『…デジカメだからそう見えるだけよ、失礼だなあ!』
「あ、そう?」
『そんなこと言う子には、英介に代わってあげないから』
切り札、とでも言うように出された人名に、ただ驚いて問い返す。
「英介さん、いるの?珍しい」
『代わってあげないもん』
「ごめんなさい、さくらちゃん」
うふふ、忍び笑いとともに、受話器がバトンタッチされるのが判る。自分たち二人には、姉弟喧嘩ができないのだ。かすかなノイズに耳を澄ませているとやがてそれは、
『せっちゃん?元気そう』
義兄の声に変わった。
「うん。英介さんは?仕事どう?」
『相変わらず、あちこち飛んでます。ちょっと見ないうちにひかるがでっかくなっててねえ…』
「はは、俺とおんなじ感想じゃだめでしょ」
『おじさん誰?って言われやしないかと、帰る度に心配』
「転職するしかないって?」
『ははは。うーん…まあ、いずれは家族で行くことにはなりそう』
「アメリカ?」
『さくらとひかるを連れてくならね。インドネシアとか、危なくてとてもとても』
「でっかい一軒家に、メイドと運転手つくじゃん」
シェフもつくよ、と笑った英介が、小さく咳払いをする。
『さくらの言ったこと、気にしちゃだめだよ』
「何?」
『結婚』
「…ん、そうだね」
摂のセクシャリティーについての最大の理解者は、この義兄である。彼は義兄というポジションから、摂をこの上なく大切にしてくれる。結婚式当日の、新婦へのそれより先に摂に贈られたキス。この先決して未練を感じてはいけないというメッセージを摂は守り、自分たちは良い兄弟になった。
『あの人すっかりお節介おばさんだから、わ、さくら、さくらさんっ』
夫の不用意な発言に、妻がどう報復したのかは音で想像するしかない。新聞か雑誌、あるいは新聞と雑誌、が投げつけられたのだろうか。音は二回だったから。
「あははっ、大丈夫?」
『ひかるザウルスのほかに、さくらザウルスもいるらしい…俺はこんなふうに、きみの姉さんと結婚したけど。単純なことだと思うんだ…you know,as the case may be』
「ya」
このスタイルが楽なようで、英介は容赦なく英語と日本語をごちゃ混ぜに使ってくる。言葉の意味は、ケース・バイ・ケース。摂のケースに応じた、幸せを見つければいいってこと。短い相槌は、心からそう思う、という意味だ。
『せっちゃん、好きな人はいる?恋人は?』
「あー、どうかな…」
英介の訊き方はとてもシンプルで、却って摂を戸惑わせる。確信のない摂に彼がかけた言葉もまた、ごくシンプルなものだった。
『そうか。何もかも、うまくいきますように』
「…ありがと」
最後にまた姉に代わり、短い挨拶をして受話器を置く。
午後三時まで、あと数分という時刻。
明日も朝から、十五分おきにセットしたアラームでなんとか起き出して、日曜礼拝に行く予定だ。最初と最後のアラームではちょうど一時間の差があるので、最後のアラームで起きた場合は遅刻決定なのだけれど。
もう一度時計を見る。ほんの十数秒しか経っていないので、午後三時まであと数分の時刻は変わらない。マグカップに指をかけて、猫舌にはちょうどよい温度にまで下がった紅茶を飲み干す。椅子の背凭れをハンガー代わりに掛けていた上着を掴み、摂は部屋を出た。
ステイタス・シンボルなんて気はないし、大して車に興味はないのだが、ハイオクしか食わない、気位の高いお嬢様のオーナーをやっている。けれど運転することは好きなので、遠出も好きだし、渋滞なんかも大して苦にならない性格だった。それも場合によるのだと、ギアをパーキングに入れながらため息を吐く。
一時間のドライブを、普段なら楽しむことができたはずなのに。
シートベルトを外して、エンジンキーを抜く。冬の四時過ぎはもう薄暗く、夕方からやがて夜へと変わる空は、水色とオレンジと灰色を、薄く薄く水で溶かしたような具合になっていた。車を降りて振り返った礼拝堂は、屋根も十字架も、逆行でシルエットになっている。左右の扉が開け放たれていればそれは必ず、出入り自由の合図だ。石段を登り、扉の前に立って中を伺う。
礼拝堂の明かりはまだ、点いていなかった。大きな窓がいくつ取られていても、空自体がもう薄っすらと暗いのだから、照明の役割はあまり果たせていない。
冷え切った礼拝堂の、前から三列目、左側の席の右端、つまり通路側の席。そこは本来、彼の指定席だったのかもしれないと気付く。ぼんやりとしたモノクロームの視界の中、こころもち背中を丸めた後ろ姿を見つけた。
ぼうっと考え事をしているのかもしれないし、もしかしたらうとうとしているだけかもしれないとも思う。けれど、組んだ両手に額を当てて祈りを捧げるポーズは―――そう、それはとても神聖で―――摂はその背中に声をかけることができなかった。
摂の影でさえ礼拝堂には侵入できず、外に向かって伸びているではないか。突然感じた気後れ。物音を立てないよう注意して、その場を立ち去った。
チャリ、チャリ、チャリ…キーホルダーを回しながら車に戻る途中、堀込牧師と出会う。
「先生、こんばんは」
夕刻の挨拶は、摂には明確な基準がある。明るいうちならこんにちは、暗ければこんばんは、なのだ。牧師は大らかな笑顔を摂に向け、横目で礼拝堂を示す。
「こんばんは。息子はいませんでした?」
「ええ…いえ、今日は」
何がイエスで何がノーなのか、自分で言っていてよく判らない。ゆるりと首を振る息子の友人を、堀込牧師はことさら追及したりはしなかった。
「そう。明日の礼拝には?」
この、軽い相槌と、後半部分を相手に委ねるような質問のしかたが、父子でほんとうによく似ている。
「…明日は、無理かもしれません」
摂の口から自然に、そう零れる。
驚き、戸惑い、言い訳を探して、結局ひどく曖昧な微笑みで取り繕う摂に、牧師は慰めるような目瞬きを寄越した。
「そうですか、妻が、がっかりするだろうなあ。いつでもいらっしゃい。教会はね、三六五日二十四時間……あー、できればまあ、朝六時から夜十時くらいまでがありがたいんですが…いつでもあなたに開いていますよ」
後半部分で摂をわずかに笑わせることに成功した彼は、胸元のクロスを握り込んで言う。
「あなたのために祈りましょう」
「…ありがとうございます」
彼に感謝の言葉を述べながら、心許なくて、キーホルダーを強く握った。
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