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ジェミニの憂鬱1

 世界観が180度変わるって、言うけど。  90度ってなると、ちょっと、微妙。  精神的な意味でも、物質的な意味でも、劇的な変化ではないという点において、驚嘆しにくい。  垂直が平行に、平行は垂直に。ああ、これって、不思議な気持ちを身体に表した時、首を大きく捻った時の世界に一番近い。  気がづいたら、その不可思議の中にいた。    平常の一日だった。  午前中いっぱいを使って営業会議、昼食はメンバーを変えてランチョン・ミーティング。午後は取引先に出向き、担当チームとの打ち合わせを。二時間程度で終わり、帰社のため、一般道を走っていた。初めて訪れる企業ではないし、地図やカーナビがなくても走れる場所だ。旧国道という片側一車線の道路、途中の交差点で、赤信号に引っかかる。青に変わるのを待って、右足をブレーキからアクセルに踏みかえたのは、意識というより習慣のなせる業だった。  摂の車は直進、対向車の先頭は右折のためにウィンカーを出していたが、こちら側の後続車が数台で切れるのをバックミラーで確認し、そのまま進む。速度や進路について、光の速さで問題提起から結論まで至るこれも、意識というより習慣で。  アクシデントは前方からではなく、右側からやってきた。  そう、対向車は動いていない。赤信号で塞がれていたはずの方向から、トラックが突出してきたのだ。急ブレーキと同時にハンドルを左いっぱいに切ったが、かわしきれず、右側面前方に衝突する。車体は水平方向に約90度回転したのち、バランスを失って垂直方向に90度、ゆっくりと横転したのだった。 ――「大丈夫ですか!?」  転倒からどの程度の時間で、声がかけられたんだろう。 「…だいじょぶ、です」  右頬の横には地面、カーラジオから流れるFM放送は、途切れずに続いている。流れていたのはルー・リードのヒットナンバーで、穏やかなウッドベースに乗せた気だるいボーカルの、きわどい歌詞は、今最高に不似合いだ。身体を支えていた右手を隙間から抜き出し、シートベルトを外す。助手席側のドアから、まるで潜水艦のコクピッドから脱出するような気分で外へ出た。 「ほんとすいません、怪我は」  同年代くらいだろうか、運転手の男が蒼白な顔で詰め寄ってくる。 「ああ…どうだろう。えーと、通報は?」 「あ、今」  男がトラックに引き返そうとするので、それを制して、スーツの胸ポケットから携帯電話を取り出す。右手首に走った痛みに一瞬眉をしかめ、左手に持ち替えて1、1、0をプッシュする。電話の向こうの応対に頷きながら答え、言われた通り標識の支柱に貼られているステッカーの番号を読み上げる。携帯電話では最寄の警察署に繋がらないケースが多いと、そう言えば何かで聞いた。住所がわからない場合、電柱や標識の番号を伝えるのが有効だそうだ。それから待機の指示を残し、通話は終わった。  曲がり損ねて横転してしまったような不恰好な愛車を、歩道から眺める気分は、かなり情けない。取引の場所でも、それから交通事故の現場でも、初対面同士がやることといったら名刺交換だったりするから、よけいこのシチュエーションが喜劇じみてしまうのかもしれない。物流会社の名刺の裏に、トラックのナンバー、運転手の携帯番号、保険会社の電話番号を手書きしてもらい、自分も保険会社に連絡しなければと、また携帯電話を取り出す。会社への連絡がまだだったことに気づいたのは最後で、履歴を辿り、通話ボタンを押した。    五分ほどでパトカーが現われる。警察の立会いのもと、実況見分。ニュースの原稿みたいなフレーズだなんて思いながら、事故の経緯を説明する。とはいえ運転手本人も、また多数いた目撃者も、青信号で直進の摂と赤信号無視のトラックという関係を証言したため、こちらの過失はゼロとのこと。その内に保険会社の手配したレッカー車が現われ、摂の車は引き上げられていった。  実況見分が終わると、何かあったら連絡ください、と担当の警察官からもやはり名刺を貰う。事情聴取は加害者側のみで、被害者の摂はこれで解放されるのだ。三十分足らずの立会いの間に右手首がかなり痛み始めていることもあり、病院へ送るという相手保険会社の担当者の申し入れを受ける。 「この度はほんとうに、ご迷惑をおかけします」 「いえ」  保険会社の担当者に謝罪され、隣で苦笑しながら頷く。そう、苦笑するしかないほど丁寧で親身な人物で、それが保険会社というものなんだろうと思うと、また苦笑してしまう。心象は重要だ、特に、双方の利害が決して一致しないような関係においては。彼は会社のために働くのであって、摂を厚遇するために働くわけではない。現実的に、自分達は法律的な対立関係にあるのだ。自分が利害関係と対人関係に敏感にならざるを得ない職業に就いていなければ、勘違いしてしまいそうなほど。これも心象の範囲ではあるが、曲者っぽい雰囲気を持つ男だった。  総合病院の外来で、診察の順番を待つ。  一時間ほどで治療まで終わり、診断書と、今後のリハビリのための紹介状が出るのでその発行をさらに待ち、やがて会計窓口に呼ばれる。もらったのは二通の封筒と処方箋のみで、清算はない。治療費は病院から保険会社に請求することになっているのだ。病院内の薬局で数種類の錠剤と湿布をもらい、自動ドアから外に出る。階段のすぐ下にいた二人の男が、同時に振り向いた。  一人は保険会社の担当者。もう一人は会社の同僚。迎えを寄越すとは言われていたが、支社から誰かが来るのだろうという予想に反して、何故か、いるのは開発部の社員だった。スラックスの上に作業服。技術系の定番スタイルだ。 「なんで乾?」  自由な左手で思い切り指差すと、長身を少し屈め、後輩が明るく笑った。 「俺んとこからのが近いじゃん、ここ」 「ああ…そっか」  支社が入っているのは中心市街地駅前の高層ビルだが、事故現場、それからこの病院へは、彼の言う通り郊外にある工場からの方が近い。 「つーか、五時から会議でしょ、社のほうで。ちょうど開発出たとこで電話かかってきてさー、びびったよ。ついに二見も年貢の納め時かって」 「うるさい。で?俺を歩かせる気?」  さっさと車を回せと命令すると、また笑いながら、大股で駐車場に入って行った。  最後まで付き合った保険会社の担当者とも、ここで簡単な挨拶を交して別れる。ややあってメタリックブルーのドイツ車が横付けされ、内側からドアが開くので、少し身体を庇いながら助手席に乗り込んだ。 「直帰って聞いてるけど」 「うん、お願い」 「了解――二見さん、憧れの頚椎カラーだ」  言いたくて仕方なかったのだろう。乾は破顔して、摂の姿を指摘した。 「そうそう。羨ましいだろ」 「羨ましくはない。真面目な話さ、だいじょぶなの?」 「うーん、まあ、痛いけどね。頚椎捻挫と右手首捻挫。診断書には全治二週間って書いてあった。あとね…三十日間の通院加療を要す、だ」  診断書の文面を思い出しながら、簡単に説明する。転倒してすぐに痛み出したのは右手首なのだが、病院での待ち時間の間に首も痛み始めた。いわゆるむち打ちというやつで、お決まりの頚椎カラーを巻かれていては、乾の容赦ない笑顔も横目でちらりとしか見えないのが救いだった。 「あ、じゃあ仕事は?」 「今週いっぱいは絶対安静だって。って言っても明日行けばどっちみち休みだから、有給一日しか使えないねー」 「労災下りるんじゃねえの?」 「そうかも…あ、ごめん、ちょっと電話していいかな」 「うん?どうぞ?」  病院の敷地から出てすぐの信号が赤に変わり、停車する。  アドレス帳から拾った名前にかけると、コール音を数回聞いただけで、あっさり留守電に切り替わった。五時少し前、先生だって勤務中に決まってる。少し思案したが、結局、お互いの第二母国語でメッセージを吹き込むことにした。 「はろー、だーりん。摂です。さっきI公園とこの交差点で、トラックにぶつけられた。車が転んだだけで、軽いむち打ちと右手の捻挫だけだから、心配しないで。今から家に帰るとこ。あ、俺は青で直進、相手は赤で信号無視だったから、10:0で俺には過失なしね。えー…と、あとで電話ちょうだい。じゃあね、愛してるよ」  乾は英語に堪能ではないが、最後の、あいらぶゆー、くらいはきっと聞き取っているだろう。彼は無言で車を発進させるだけで何も訊こうとしないので、自分から理由を説明することにする。 「今頃さあ、ちょっと怖くなってきた」 「ああ、うん、そりゃそうだろ…相手トラックだったって?」 「そう、それもあるんだけど、そういうことじゃなくて」  パチン、電話を閉じて、胸ポケットに。 「たとえば俺が大怪我したり、死んだ場合ね。お前とか、俺の家族はすぐにそれを知ることができるけど…彼は、そうはいかないでしょ?」  疑問形にしたところで乾は答えを知らないことに気づき、訂正する。 「いかないんだよ。彼と俺の共通の知り合いって、いないから」 「そっか」 「そ。それ考えたらさ、ちょっと、怖くなってきた。今まであんまり…そういうの真剣に考えたことなかったのになぁ」  もし俺が死んだら、なんて、ピロートークの戯言以上の意味で口にしたこと、今までない。  乾と慧斗にとって、共通の知人というのはまさに自分のことだ。どちらかの身に何かあれば、あるいはそれほど深刻なことではなくても、仲介役になることができる。比べて、摂には自分の様子をノアに知らせることができる人物が身近にいない。反対に堀込牧師やララならば、彼らの息子の様子を摂に知らせることができるのに、だ。 「今度――近いうちさ、紹介する。会ってあげて?」  面食らったように上がる、左の眉。  病院での長い待ち時間、仕事の心配よりも、もっとプライヴェートで欲求に従順なことばかり考えていた。クラッシュするまでの数秒間に走馬灯こそ出現しなかったが、根幹はそれに近いと思う。 「そりゃ、俺はいいけど。例の、自慢のカレシ、だろ?」 「うん」  カラーのせいで、小さく顎を引くことしかできなかった。

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