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ジェミニの憂鬱2
マンションの駐車場に空きはないのだが、今、借用しているスペースに本来収めるべき車はなく、乾の車を招待するのに不都合はない。エンジンを切ると、何も言わずに摂の荷物を手に車を降りるので、続いて手ぶらで助手席を出る。先んじて歩いていた彼が、エレベーターのドアを開けて待っているなんて厚遇ぶりだ。遠慮なく踏み入れると、頭上から、含み笑いが落ちてくる。
「このチャンスに、売れるだけ恩売るぜ?」
「返す、の間違いじゃないのー?」
どうやら美徳としての沈黙ではなく、効果的な言葉が何かを考えていただけだったらしい。善意の男に心を込めて感謝すると、ひそめるようなにやり笑いが返ってきた。
階数表示が止まり、エレベーターボーイが「開」ボタンを押している間に降りる。腕時計の針は何度見ても、六時台と読み取るしかない角度だ。思いがけず早い時間に帰宅することになってしまい、落ち着かない気分に見舞われていた。
「二見さん靴脱げる?」
「脱げないから脱がせて」
応酬しながら靴を脱ぎ捨て、リビングに入る。さっきから…いや最初から、何がそんなにおかしいのか、乾は笑ってばかりだ。こっちは怪我人だっていうのに。
「あれだよ、飯ん時に、あーん、ってやってあげようか」
「あ、それ、慧斗くんにやってもらいたいなあ」
「だめ」
急に真剣。口封じに成功して反撃に思考をめぐらせていたのだが、乾は摂の鞄をソファーの脇に置くと、玄関に引き返して行く。
「あれ、帰るの?」
「…帰るっつうか、行くっつうか。まだ会議やってるでしょ、微妙だけど、たぶん」
「確実に終わりそうな時間までいれば?言い訳に使っちゃいなよ、俺を」
名案だと思ったのだが、彼の評価を聞く前に、インターホンの音によって会話が遮られた。靴を履きかけていた乾がもう一度こちらに戻り、受話器を上げる。
「はい」
伸ばした首を次に傾げて、目線を向けてくる。
「何?」
「二見さんのさ」
受話器を手のひらで塞いで。
「カレシの苗字って、何だっけ?」
きっちり一回、チャイムが鳴る。
ドアを開けるのはやはり乾の役目で、そのフレームの全長いっぱいに、チャイムを鳴らした男の長身が収められている。平均値よりじゅうぶん背の高い後輩より、さらに長身なのだと、目礼を交わす彼らを眺めながら再確認している。ゆったりと体重を感じさせる体格、このエキゾティックな顔立ちで、堀込姓を持つ男を、摂は一人しか知らなかった。黒いチノパンに白いポロシャツなんてありきたりなコーディネートが、洗練されて見える男。
「入って」
驚いているようだけど、従順にスニーカーを脱ぎ、ソファーに腰掛けた摂に近づいて来る。それでも測りかねたようにちらりと乾を振り返るので、
「へいき」
本当のところ少し焦れて、ノアを手招いたのだ。
「知ってるから。俺たちが今キスしても、驚かないよ」
立ち上がろうとした摂を制して、彼は騎士のように片膝をついた。無傷の左手に、大きな手が重ねられる。もう一方の手が髪を撫で、それからその手は頬に添えられる。首を動かせない摂の分まで、ノアが深く首を傾けなければならない。唇どうしが触れ、しばらく重なり合い、やがて離れた。
「顔を見るまで、生きた心地がしなかった…」
「実物だよ。もっと味わう?」
コンタクトレンズの奥、深い深い黒目に、いっぱいの光がたたえられている。彼が目を細めたことによって、それは少し和らいだ。
「味わいたいところだけど。後でね」
「賛成。そこの、後ろでぼーっとしてるやつがね、乾」
摂は自分のことを口が堅い人間だとは思っていないし、周りの意見も同じだろう。乾のこと、それから彼の恋人のことも、時には話題にしてきた。乾に対して自分とノアとの関係を話すことがあるのと、同じようにだ。彼らはすぐに理解したようで、改めて挨拶を交わしている。ビジネスシーン以外での名刺について、考えさせられる機会の多い一日だ。乾は作業服の胸ポケットに名刺ケースを戻しながら、空中を睨んで言った。
「…あ。ここまで車で来ました?」
「え?ええ、はい」
「どこ停めたの?」
「いつも通り。エントランスの前の、脇に寄せて」
「じゃあ俺、車動かしますんで。そっち入れたほうがよくない?」
「うん、そうだね。あ、ほら、俺の車フロント全壊でさ、レッカーされちゃったから。今空いてるんだ、駐車場」
それぞれに対するそれぞれの口語が飛び交いながらも、乾が帰り、空いた駐車スペースにノアが車を入れることで決定する。車のオーナー二人が連れ立って玄関から出て行く後姿を、摂はソファーから見送った。部屋に一人きりになったのは五分程度で、すぐにノアが戻って来る。立ち上がって迎えようとすればまた片手で制され、数センチ、座る位置をずらしただけになった。
「ね、どう?」
「んー…。何が、でしょうか」
突然で端的すぎる問いかけを、それでも理解しようと努力した表情は、最後困ったような微笑に変わる。
「乾の印象。何か喋った?」
「ああ。大したことは喋らなかったけど…そうだな。さすが摂の友達、かな」
「それ、褒めてる?あいつをじゃなくて、俺を」
「ははっ、そういうところが。仲良いよね」
「うん、仲は良いんだ。あいつが新卒で入ってきた時からの付き合いでさ、今じゃ、ちょー公私混同だよ」
「なるほど。彼に、俺のことは何て話してたの?」
「俺の恋人だって。言ったじゃん、公私混同だもん」
ふつう肯定的に使わない四字熟語も、言い切ってみればおかしな説得力を持つ。ノアが大きく破顔したので、つられて笑ったあと、摂は口元を少しだけ引き締めた。
「乾には少し話したんだけどね」
「――うん」
「ねえ、立ってないで。座って」
「はい」
鷹揚に笑いながら、彼はダイニング・チェアに腰掛ける。もっとも、
「誰がそこに座れって?」
すぐに移動を命じられることになったのだけど。ソファーの真横が沈み、背中に腕が回される。鍛えられた逞しい肩に寄りかかれないことが、ひどく悔しかった。横目で見上げると、期待通り、目が合う。
「…俺のことを知ってて、ノアのことを知ってる人間が、必要だと思って」
「うん?」
「そうじゃなきゃ。俺の身に何かあって、それを俺自身で伝えることができない事態に陥った時、ノアは知ることができないだろ?」
「…うん」
「もっとダイレクトに言ってほしい?」
「結構です」
究極の仮定法を穏やかに拒絶すると、彼はソファーから立ち上がり、再び摂の前に跪いた。今度は騎士のそれではなく、摂の両膝に縋りつく幼い動作で。
「怪我は?本当に、これだけ?」
「うん、ほんとに、これだけ」
「あのメッセージを聞いて、血の気が引いたよ…心配するな、なんて無茶なこと言わないで」
太腿にすりつけられる頬の感触。黒い巻き毛に指を入れ、ゆっくりと撫でた。
「駆けつけてくれてありがと。ねえ先生、仕事は?」
「大丈夫。定時は過ぎてました」
それが何の免罪符になるだろうか。彼の住む街からここまで、約一時間の移動時間を要する。帰宅ラッシュも始まっているのに六時台に着いたということは、摂が留守電に吹き込んだメッセージをすぐに聞き、すぐに、出発したんだと思う。
彼が両腕を使って摂の腰を抱くように、両腕で彼の頭を抱き返すことができない。これもまた、じれったいものだ。
絶対安静とはいえ、ソファーの上だけで生活するわけにもいかない。少しずつ日常生活に自分を再読み込みさせていくと、思った以上に支障があることが判明する。
まず、右手が使えない。骨に異常こそないらしいが、動かそうとすれば、それを拒絶する痛みが発生する。あいにく右利きのため、代替の左手は自分でも笑えるほどぎこちない。にわかにキッチンに立つ運命になった男は、ただし摂の左手とそれほど能力差のない利き手を持っていて、口ではなく手を出したいと強く思わされたのだけど。
次に、首が動かせない。カラーで固定されているから当然なのだが、立つ、座る、しゃがむ、屈む、全ての動作が制限されるのだ。そして複合的な障害としては、このカラーを、片手で装着する方法が現段階で見出せないこと。右手を犠牲にするべきだろうか?幸い、調べ考える時間だけはたっぷりある。
それまで脳内物質の分泌が過剰だったのかもしれない。その内に疲労感と鈍痛が強くなり始め、ベッドへと移動する。背中にクッションを総動員して、キッチンから聞こえてくる水音と食器の音を、少しはらはらしながら聞いていた――はずが、ふと目が覚める。目が覚めたってことは、寝てたってこと。
「ごめん、起こしたね」
「…ううん」
何かに騙されているような気分で、ベッドの傍らに腰掛けていたノアを見る。彼の手首に巻かれた腕時計に触れると、時刻を読み上げてくれた…もうすぐ日付が変わる。
「苦しそうにしてたから。起こそうかどうか、ちょっと迷ってたところ。痛みますか?」
「うーん…かなり」
「痛み止めは?」
「飲む…」
照明で半分以上影になっているノアが、一旦ドアの向こうに消え、薬と水を持って戻る。摂が白い錠剤を飲み込むのを見届け、彼はやんわりと目瞬きをした。
「――そーりぃ、だーりん。このまま放って帰りたくはないんだけど」
「はは、そうだねえ、つきっきりで看病してほしいところだな」
優しい眉が、一度上がり、ハの字に下がるから。
「ねえ、冗談だよ?これ以上ここにいちゃだめ。明日辛いでしょ?最低のコンディションで、仕事なんてさせられないよ」
「ごめん」
「あ、でも、ベストよりベターとも思うけど」
「はは」
「ちゃんと休んでね。睡眠時間、削ってくれてありがと」
「どういたしまして。摂こそ、ちゃんと休んで」
おやすみとさよならのキスが、両頬に一度ずつ贈られる。
「一人ではしゃいだって楽しくないもん」
「そういうこと。はしゃいだ分だけ治りも遅くなるしね。じゃあ…明日も来ますね」
「うん、待ってる。気をつけて帰って」
「肝に銘じます」
おやすみでもさよならでもないキスを摂の唇にほどこすと、ノアは静かに足音を立てながら、部屋を出て行った。
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