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第10話

 あ…。  痩せ気味の足が、音もなく横切る。  まだ?行った?しばらく待ってそろりと目だけ上げると、彼(あるいは彼女)はもう通り過ぎた後だった。幽霊の通り道、受け入れてしまえば驚きはない。  碧はゆっくりとソファーに身を起こした。  シェードの向こうの色が夜から朝に移り変わって行くのを、ずっと感じていた。すでに外は薄っすらと明るく、白い太陽が注し込んでいる。  朝は、静謐だ。  注意深く息をひそめて、Tシャツとジーンズに着替える。初めから自分のものだった一揃いだ。ぱさついた前髪を手で払って、ニットキャップをかぶる。旅行者ではなく、ただ迷い込んでしまっただけだから、中身なんてほとんどないリュックを背負えば身支度は終わってしまうのだった。ベッドにうつ伏せに近い恰好で埋もれている永久を、そっと覗う。シーツに広がった茶金の髪は1ミリも動かない。アオは…今朝は、ソファーの下。  ぎゅっ。リュックのベルトを握り締めて、碧は部屋に背中を向けた。 「ほんっと、猫みたいなやつ!」  笑いが弾ける寸前のトーン。  はっと驚いて振り返ると、ベッドにあぐらを掻いた永久が、思いきり人差し指を突き出して破顔していた。 「黙って出てく、習性なんだよなぁ」 「永久…」  情けない声が出た。 「タヌキ寝入りなんて、する?」 「猫よかマシ」  明るく言い切ってベッドを降りると、ぼさぼさの髪をさらにガシガシとかき混ぜて、ピアスを押した眉尻を掻く。 「眠れないさ、俺だって」  するする、シェードが上がり切ると、今日もきっと暑くなる、そんな予感を孕んだ日差しが永久を照らした。 「朝飯作ろうぜ」  スクランブルエッグを作るのって、ちょっと、好きだ。  永久が教えてくれた方法は、バターが溶ける程度に温めたフライパンに卵を流し込んで、弱火でひたすら、ゆっくり、フライパン底をへらで往復するだけ。これが案外に、人を没頭させる作業だと思う。時間をかけて空気を内包していく鮮やかな黄色に惹かれる気持ちは、永久の共感を得られなかったけど。曰く一言、変なやつ。  目の前に長い腕がにゅっと伸びて、ボウルを取ると、元に戻る。碧にフライパンを任せている間に、永久はその他のメニューを一人で完成させるのだ。サラダを作ったり、冷凍パンをトーストしたり、チーズを切ったり。最初、男の一人暮らしで朝のキッチンがこんなにメロディアスでカラフルなものなのかと驚いたのだが、グザヴィエ・サジュマンのアトリエに居た頃からの習慣なのだそう。Lifestyles Of Health And Sustainabilityの頭文字を読んで、ロハス。スローライフ・スローフードとそれほど違う印象を持っていなかったのだが、意味合いとしてはそれらを含み、さらに自己や環境にまで広げた総合的な思想みたい。サジュマン氏は一人のアメリカ人として、その実践者であるのだ。彼の弟子はベビースモーカーだが、健康とエコの定義からは外されないんだろうか? 「碧、できた?」 「これくらいでいいなら…」  何を以って出来上がりになるのか、いまいち判らず首を傾げる。 「エクセレントな半熟」  どうやら合格点。半分ずつ皿に盛れば、人間の朝食の完成だ。次に、さっきからずっと足元で丸まっている猫のために、キャットフードの準備を。固形のキャットフードを皿の中にざらざらと流し込むが、あまり、興味をそそられていないよう。 「アオ、まだ寝てたいんじゃない?」 「置いとけば、そのうち食うだろ」  気にする様子もなく彼女の飼い主は笑い、器用な手つきで皿を運んで行った。コーヒーのボトルだけ持って追い掛けると、テーブルをセットしながら永久が背中で喋る。 「テレビ点ける?」 「…ううん」 「ラジオは?」 「必要ないよ」  やっとこちらを振り向いたので、首を振って見せて、碧は重ねて言った。 「必要ない」 「そ」  最小限の相槌ひとつで。  食事は、沈黙の中で行われた。人間同士が喋らないというだけで、決して無音ではない。食器の鳴る音や、たとえばトーストに齧りつく音、食事という行為に伴う色々な音で溢れている。時々目が合って、何となく表情に困り、結局笑ってしまったりする。ただ、無言だった。  時間をかけて朝食を摂り、食器を洗うのは碧の役目。洗い終わって、濡れた手をタオルで拭けば、他にすることはなくなる。キッチンを出ると、遅れて朝食を摂るアオの隣りにしゃがみ込んで彼女の背中を撫でていた永久が、顔を上げた。合図なんて特に、ないけど。 「行く?」 「うん」  今度こそ、出発の時間だった。  キャップをかぶり、リュックを背負う碧の後ろで、永久がアオに言う。 「お前は留守番ね」 「永久。一人で行くから」 「ほら碧、アオに挨拶」  意思は無視され、永久に両脇を抱えられたアオが目の前に迫る。面食らいながら彼女を受け取ると、ニャー、キャットフード臭い息がかかり、思わず吹き出してしまった。  黒い毛並みの美しい身体を抱きしめ、放す。  先に部屋を出た永久が、開けたドアの先で待っている。スニーカーの紐をきつく結びなおして、碧も部屋を出た。  何をしようとしてたのか忘れた時、さっきの場所まで戻ってみたら、って言うけど。ちょうど、そんな感じがする。  思い出すための道程なんじゃないかな。渋谷駅まで歩き、山手線に乗り、日比谷線に乗り換えて恵比寿まで。そこから続く道を、ゆっくり、歩く。  そう、この道を逆方向に歩いた時は、彼よりずっと後ろを尾行するように歩いていて。急に振り返った永久に、隣来ないの?って言われたんだ。  時間ごと逆行しているみたい。  やがて、開館直後の東京タワーに辿り着いた。  チケットを買って、エレベーターに乗り込む。ガクン、といってエレベーターが止まると、そこは特別展望台だった。舛添は――もう、来ている。スーツをきっちり着て、腕組みをして、こちらを見ている背の高い女性を見間違えることはできない。  碧の背中を軽く押したのは、永久だった。  作用はごく小さなものだったはずなのに、一歩前へ踏み出してしまい、慌てて振り返る。見慣れたはずの、ハンサムとファニーの境界線上を行ったり来たりする、ピアッシングだらけの顔。中でも特に印象的な、深い色の目と目が合った。  まごついた気分のまま、キャップの縁を握り締める。  永久の無言は今、碧をエスコートするためのものだから。決意して右手を差し出した。  トン、まずは甲に甲でタッチして、それからするりと間を抜けるように手のひらを重ねる。彼らしい、遊びの一部みたいな握手だった。 「さよなら」 「うん」 「ありがと」 「いいえ」  たった四つのフレーズで、完結してしまうものなんだ。  企むような、悪戯っぽい笑い顔を一瞬で目に焼きつけて、碧は床を蹴った。    お台場方面をバックに、こちらを向いて立っている女性。ピンヒールから伸びたパーフェクトな脚線が動くと、大きく巻いた長い髪が揺れる。 ――「碧」  彼女の細い手が碧の両肩を掴み、白い額が胸に押しつけられる。と。 「このバカ」  もちろん、第一声は叱咤。 「うん、ごめん…舛添さん、すげークマ」 「誰のせいか、言ってみなさいよ」 「…ごめんなさい」  ごく軽く、舛添の腰を抱き返して、碧はもう一度ごめんと呟いた。不在着信の数は、心配のバロメーターだって解っている。その上彼女は、碧の居ない間のフォローを一人で行わなくてはならなかったのだ。再会のハグが解けると、彼女はマネージャーの厳しい表情に戻っていた。 「休暇は終わりよ」  嫌味っぽさ以上に、碧を兆発するような口調。こういう人。  うん、と頷いて、目を閉じる。  目を開けて、見た先、エレベーターの入り口に、写真家の痩身はなかった。

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