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第11話

「だから――」  さっきまで流暢に喋っていた彼女が、突然、声を失う。  開いた口をぱくぱくさせ、ぱたぱたと手振りが加わり、最後、ぱちんと合掌。  その仕草が可笑しくて、ぶっ、横を向いて吹き出してしまった。  はいカットー、の声が、天井で大きく響く。  凍り付くように静まり返っていた周囲がざわつきを取り戻し、動き始める。スタッフがあちこちで交錯し、二人の間に身体を割り込ませたヘアメイク担当が、額や鼻にパフを押しつける。むず痒くなったた鼻をひくつかせながら、碧は睫毛に引っかかった髪の毛を払いのけた。 「ごめんねー、碧君」 「せりふ、とびました?」 「とんだー」  悔しそうに言ってもどこか柔らかいトーンが、彼女の声の特徴だと思う。最近ではドキュメンタリー番組のナレーションもしている、先輩女優だ。拳を額に押しつけながら、ぶつぶつと早口で長台詞を唱えている。間違ったところは、特に何度も繰り返して。長回しが多いので、この手のリテイクはしょっちゅうかかるし、時間が長引けば精彩を欠きやすい。ただいま午前一時。ざわつきながらも、現場の雰囲気そのものが女優を待っている。よし、と彼女が顔を上げると、また、キンと空気が張り詰めるのだった。そして、再開の合図。 「テイク…よーい、スタート」    今、ドラマの撮影をしている。  九月になり、放映を来月に控えたこのドラマは、製作発表時から変わらないキャストでの撮影が行われていた。  元の世界に戻った日。舛添の運転する車で本社に直行し、滅多に顔を見ることのない社長と会った。叱責こそされなかったが、今回のことが成長材料になることを期待しますと厳かに言われて、どうしたって罪悪感はそんなに感じられないのだけど、同時に事の重大さに気付かされないわけにもいかなかった。ずいぶん長く話をしたが、主に喋っていたのは社長とマネージャーで、ビジネスの話だったと思う。舛添は特別な時でない限り現場に同行して来るようなマネージャーではなく、文字通りマネジメントが仕事なのだ。  本社を出て、その足で美容院に連れて行かれた。色を失った髪は、人工の黒に染め直された。全部リセット。なかったことに、なったのかな。  クランク・インを「病欠」した小田島碧は、一週間で復帰した。  運が、良かった。  週刊誌での失踪報道もあったが、今まで演じてヒットした役柄が必ずしも明るい役ではない俳優にとって、それほどのイメージダウンにはならなかったから皮肉だ。演技派とか本格とか評されて、案外、ネガティブな面が好まれてたりする。  時期、に誰もが賭けていた。そして少なくとも、記者は時期を待ちすぎたのだろう。碧は復帰し、ドラマも続投、全てが後日談だから、記事は何となく読み飛ばしてしまう程度の印象しかなくなった。こちらからマスコミに向けて流したFAXはごく形式的なもので…体調不良のため一週間の療養期間を頂きました。応援してくださる皆様ならびに関係者の皆様には以下云々。碧はただその文面の一番最後に、ペンで名前を書いただけである。ただ、そのサインは碧にとって誓約の意味合いを持つものにも感じられた。何て言ったらいいのかな…自分自身の存在を証明して、自分自身に誓う、感じ。  舛添は、賭けに勝った。  いくら彼女が関係者に碧の体調不良を認知させていても、復帰に時間がかかれば、それとは別に降板が現実的になるから。興信所を使って探してはいたが、表立って捜索できないという弱みがあり、その点で記者の嗅覚を上回ることは出来なかったらしい。あと一日遅れたら、記者と取り引きをしていたかもしれないそう。実際に碧の代役候補は挙がっていて、降板が決定する日付は迫っていたのだが――運であり、運命、だったんだろう。毎日深夜まで、カメラの前にいる。  碧のせいで押していた撮影スケジュールだが、ロケ以外のシーンは取り戻したし、第一話については台本の変更も行われていた。つまりこれがオンビジネスの側面で、今回碧は被害者ではなく加害者だ。自分のシーンが減らされるということは、それに付随する色々な不調和を引き起こし、たとえばシナリオは本来の形から変化を余儀なくされ、予算の配分も変化する。あいつのせい、の、あいつ。果たせなかった責任は確かに存在し、架せられたペナルティもある。特に売り出し中の彼らにしてみたら、碧のように無責任すら庇護されるゲーノー人は腹立たしいだろう。俺だったらどんな状況でも演じ切ってみせるっていう、思いの波動。誰かの向上心と虚栄心が、不意打ちのように色んな角度からぶつかってくる。やっぱりテレビは、苦手。  それでも、演じることに純粋になれれば、あれほどナーバスだったドラマの仕事が楽しかった。 「小田島君」 「…はい?」 「寝てた?」 「あー、寝て、ました」  隣りで笑っているのはヒロインの相手役、つまり彼も主役で、碧の役柄上の兄。舞台出身の俳優だ。ムードメーカーである彼は、ぼんやり頷き返す碧に、疲労の色は濃いがそれでも状況を楽しむ顔つきで言った。 「つーか。コーヒー持ったままだから」 「あ」  中身の入った紙コップを握ったまま、パイプ椅子の上で寝ていたらしい。あ、ミオさんもこっち見て笑ってる…。毒味する気分で一口含むと、ホットコーヒーだったそれは冷めきっていて、酸味とえぐみのきつい黒い液体に変化していた。セットの中の本番風景を見ながら、横顔の彼がまた笑う。 「見ると寝てんだよ、小田島君って。天才だよね」 「褒めてないっす」 「いいじゃん。俺現場で眠れないから、羨ましいなぁ」  ふあ、と欠伸をしながら言うのだが、確かに居眠りをする彼を見たことはない。はあ、と歯切れ悪く呟いて、碧はそのまま曖昧に苦笑する。紙コップをテーブルに置き、椅子の上で膝を抱えると、隣りに倣って撮影風景を眺めることにした。    夢を、見るんだ。  深夜に帰宅し、早朝には出発するスケジュールで、睡眠時間なんて三~四時間程度なのに。暗転、のち、朝、みたいな睡眠ではなく、ぼんやり何かのイメージを感じているのだけどそれが何なのか判らない、とても抽象的でいてもどかしい夢を見ながら寝ている。相変わらず、眠りが浅かった。  そして。朝起きて――まるで心待ちにしてたみたいに目が覚めるなんて感覚はもうないけど、朝起きて、見渡す壁に圧倒するような数の写真がないことに、まだ違和感を感じている。けれど、こっちが夢なんじゃないかって、そんな夢みたいなことを考えるなんて、できなくて。    早朝から晴天のロケだった。  渋谷の街の一角が、ロープで囲まれている。代わる代わるシーンを撮影するのだが、じっと立っているだけでも汗が流れて、カットの声がかかる度に汗を押さえなければならなかった。何しろ着ているのは、秋物のジャケットだ。  ロケは朝のうちに終わり、午後からのスタジオ収録まで、ぽっかり三時間ほど時間が空いてしまった。他の仕事に向かうキャストを見送り、タクシーを断わった碧は、ぼんやり街を歩いていた。  何週間かぶりの渋谷だから、少し、歩こうと思って。  朝食を抜いていたので、途中コーヒーショップに入る。ワッフルをモカで流し込んで、また、歩く。  何かに惹かれるでもなく、ふと、目線を上げた。  狭い空だ。ビルとビルの隙間に立っていることを強烈に意識させる、コントラストが…。  息を止めて、魅入られるにはじゅうぶんだった。壁に貼られたポストカード大の小さな一枚と、この目で見ている角度とか色合いとかが、繋がってしまったから。  ほら。  身体が勝手に、走り出すんだ。  解けたスニーカーの紐を踏んでいるかもしれないけど、それはちっとも重大なことではなくて。これ以上スピードの出ない身体に焦れて勝手に行ってしまおうとする精神を、必死に追いかけている気分だった。  ガードを潜って、どんどん路地裏に入る。  無個性で時代遅れなアパートの、狭い急階段を二段抜かしで四階まで駆け上がった。ノックもせず、疑いもせず、思いきりドアノブを捻る。  ガチャ。  開いたドアから真正面の位置に、彼はいた。  大きなスーツケースに腰掛けて煙草を吸っていた永久が、手にした葉書のようなものから顔を上げる。碧の顔に焦点を合わせた目線が、だから碧が近づくのに合わせて、少しずつ上がっていく。ぜいぜいと、酸素を求めるだけで精一杯の碧に代わって、先に口を開いたのは彼だった。 「いらっしゃい」  スーツケースで煙草を揉み消して、笑う。 「元気そうじゃん。髪の色、変えたのか」 「…変えたんじゃなくて、戻した」  息の間から、つい訂正してしまう。顎から滴り落ちる汗を鬱陶しく思いながら、碧は永久の膝の上で伏せられた一枚のカードについて、詰問することにした。 「永久…何、隠したの」 「あぁ。これ」  ちらっと、見せる振りだけして、背中に隠す。ほんと、手品師みたいな手つき。でもさっき見たから、知ってる。 「何に、使おうって?」  碧の揶揄にふっと目を伏せ、斜め下を向いて、それから笑う。観念したように差し出された一枚の写真には、銀髪の自分が映っていた。通り雨でずぶ濡れになったあの時の、永久がシャッターが下ろす瞬間を意識した碧の横顔だ。  先に口を開いたのは、やはり、彼で。 「きみといた時間」  じっと、碧を見上げて。 「全部じゃないけど。俺にとっては、恋愛だった」  永久の長い指が、写真の中の自分に触れた。 「この瞬間、とか、ね」  あっさり言って、腰を浮かした永久が、ジーンズの尻ポケットに写真を捻じ込む。碧は揺れる茶金の毛先をうっとり見ながら、永久のつむじに話しかけた。 「あんな、別れ方をして」 「どんな?」 「あなたに…あなたと、キスもしないで。そう思ったら、未練で、きっと死んでも死にきれないと思いました」  チャリ、ピアスが弾けて、永久は声を出して笑った。 「はははっ、健全なやつ」 「あなたは不健全だ」 「…まあね」  愉快そうな笑い声はすぐに消え、妙に生真面目な顔になる。たぶん、自分も、同じような顔――キスをする前の顔だ。碧が少し屈んで永久の両肩に手をかけると、永久の両手が碧の頬を挟む。鼻先が触れ合い、唇が重なった。 「ふ」  目を閉じて、唇の形を追いかける。  飽きずに、変質的なくらい、唇と唇を触れ合わせ続ける。擦れて熱を持った表面を、ちらり、舌先で濡らして。誘われるように開いた彼の唇の間に、そのままそっと舌先を挿し込むと、前歯で噛みつかれた。  小さく鼻息を漏らして、舌を絡め合う。  上唇に吸い付くつと、下唇を舐められて、何度も角度を変えて重ね合う。くちゅ…くちゅ…くちゅ…タール混じりの唾液が、きめこまかく泡立つ感じ。はぁ…息の間から永久が、心地よさそうに囁いた。 「キス、上手いね」  頬を撫でていた手が、悪戯に、耳を弾く。 「永久も…永久」  特別な人を呼ぶためにあるtoiを繰り返しながら、数ミリの距離がじれったく、唇を突き出す。ちゅっ、永久が大きく音を鳴らして碧の唇を吸うと、またすぐ、深い口付けになった。

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