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二拍子のワルツ4
テーブル、ソファー、本棚、それらが配置され、カーテンは新調、その他にも新しい家具がやって来る。壁には写真家の作品がかけられ、内と外を繋ぐあの魔術のような光景も、新しいアトリエに馴染む。毎日顔を出せるわけではない自分にとって、それらの再生はごく大雑把なダイジェストVTRのようだった。
玄関ドアから広がっているスペースは、カウンター越しにキッチンこそ見えるが主に写真家としての彼のスペースで、文字通りアトリエの機能を強く持つよう。建物の入り口がそうであったように、壁が素っ気なく長方形に切り取られていて、その奥にバスルームやトイレ、ベッドルームになるべき部屋がある。なるべき、と言わなければならないのが真実なのだ。部屋の主はいつまでも新しいベッドを購入しようとせず、いまだにソファーで寝起きしている。アトリエに行く度にそれを指摘しているのだが、多忙と、春の過ごしやすい気候が彼をベッド購入に関して非行動的にさせている。ソファーよりベッドのほうがいい。何にかって、睡眠に。それが事実なのに、口に出してベッドを買えと催促するのは妙にセクシャルな要求のような気がして、決定的に彼に命令することはできないでいた。
外で会う約束をしたのは、四月の第二水曜日。
駅から徒歩五、六分の、表通りをほんの少し入った位置にあるオープン・カフェが、指定された店だった。晴れていてよかった。テラス席で、とまで限定されていたことを特に不思議には思っていなかったが、雨が降った場合のことも特に考えていなかった。平日の、ランチタイムを外した午睡の時間にも関わらず、場所柄もあってか席はそこそこ埋まっている。永久の姿がないことを確認して、空いた席に座った。
午後二時を午睡の時間、なんて考えたけど。まさに自分が戦っているのはその欲求とで、彼を待つ間、アイスティーの氷がきらきら光るのを見ながら、うつらうつらし始めていた。
――「待たせた?」
睡魔を掃うテノール。
はっと顔を上げると、毛先の揃わない前髪の間から、永久が笑いかけている。キャスケットのつばを上げ、意味もなく鼻をこすって、碧は首を振った。
「や…俺が早く着きすぎて」
「そっか、ごめんな」
待ち合わせ時刻より、十五分ほど早く着いていた。事実を知った上で、ついでのように軽い調子で謝るのだから。ううん、の呟きは口の中で消えてしまう。コーヒーをオーダーし、永久が向かいの椅子に腰を下ろすのを見て、ようやく彼の手荷物の多さというか大きさに気づく。
「それ…何?」
永久が椅子のへりにぞんざいに引っ掛けたのは、くたびれたトートバッグで、見たことがある。もう一つ、慎重に足元に置いたのは、見慣れない柄と形の大きなバッグだった。ボックス型のそれは機材を入れるのに適した形にも思えるが、目の前の写真家が普段使っているものとは少し種類が違う。永久は軽やかに笑いながら、煙草を咥えた。
「何というより、誰、かな」
「え?」
「デートしてたから、彼女と」
唇に煙草を挟んだままの、くぐもった発音。腰を屈めた彼が、バッグの側面のジッパーを上げると、
「アオ」
メッシュ地の向こうに黒猫がいた。
「え?何で?どうしたの?」
屈んで顔を近づけ、中を覗き込む。どう見ても本物のアオだ、動いてる。指先を近づけると、ちゃんと反応する。碧の面食らった様子がおかしいのだろう、くくく、と喉の奥で笑いながら、永久は煙草に火を付けた。
「病院帰り。あ、病気になったわけじゃなくてさ。年に一回、定期健診することにしてんだ。去年の今頃ちょうどアオを連れてったから、今回で二回目なんだけどね。このお嬢様、散歩癖があるから、余計心配だし」
猫に定期健診が存在することさえ初耳だったが、それよりも、目の前の様子に気を取られている。まさかバッグの中にアオが入っているなんて。
「平気なの?こんなふうに運んで」
「猫用だもん。これが一般的だと思うぜ?時々、長期で留守にする時は誰かに預けてたんだけど、そういう時もこのバッグに入れて連れてったよ」
「へえ…」
「パニックになるナイーブな猫もいるとか、蓋開けた途端逃走したって話も聞くけど。幸い、それもなく…」
語尾が微笑でかすれる。穏やかかつ曖昧に言葉を切って、一度、灰皿に灰を落とす。彼はトートバッグから大判の本を抜き出し、テーブルの上に置いた。そのまま片手でこちらに押し遣るので、コーティングでつやつや光る表紙を、碧は恐る恐る撫でた。
「これって」
「見本だけど、よかったらどうぞ」
「…ありがと」
長い月日をかけて出来上がった、一冊の写真集。雑誌媒体、ポスター、レコードのジャケットなど、彼の作品が出版物の一部や印刷物の一部となることは、碧の知る範囲でも少なくなかった。ただ、彼の作品だけを集めたまさに作品集と呼べるものは、今まで存在しなかったのだ。見本という名目だが、実際これは、発売前というだけの完成品と言える。
「おめでとう、で、いいのかな」
「いいんじゃねぇの?どうもありがとう」
形式的な上に半疑問形の祝辞しか贈れなかったけど、永久はがっかりした顔もせず頷いてくれた。
「+YOU」とタイトルされた分厚い表紙をめくると、遊び紙がぴんと立ち上がる。開いた跡も折り目もない生まれたての本が、どこか神聖な存在のように思えてしまう。雑誌に掲載されたもの、ポスターになったもの、それからフライング・ソーサーズのレコードジャケットになったものも、本来の形で納められている。彼の視線そのものに感じる、独特な動線上にあるフォーカス。それが街の風景を時にファンタジックに、時にシビアなほどリアリスティックにしている。
「碧。そのペースで最後まで見る気?」
そのつもりだったけど。歓迎されないみたいなので、後ろ髪を引かれる気分で本を閉じた。
「ありがと」
もう一度、感謝の言葉を伝える。おめでとう以上にありがとうを重ねたい。永久は咥え煙草のままにこりと笑って見せると、横長の紙切れを、表紙の上に乗せた。
「これも、よかったら」
ごく周知性のある紙片をつまんで、彼を見る。
「チケット?」
作品集の出版に合わせて、個展が開かれることになっている。そのチケットだろうと思ったのだが、永久は首を横に振った。
「無料だから、なくても手ぶらで入れるよ。まあ、それは、フライヤーみたいなもんだな。美大とか…ま、そのへんにも置くんじゃないかと思うけど」
彼は芸術家であり、決して運営者ではないから。うそぶくような口調で言って、コーヒーを啜るだけだ。それからまた煙草を咥えて、ゆっくりと煙を吐く。
やや西に傾いた日差しに、白い煙が透けて、ぼんやり広がる。耳たぶのピアスを指先で小さく弾く手つきから目を逸らして、碧はグラスの中の溶けかけの氷をストローで混ぜた。カラカラとかすかな音が立つ。再び上目で伺うと、煙草を吸う口元は、穏やかな微笑の形にキープされていた。
「ん?」
視線に気づいた彼が、片眉を上げる。
「ううん」
答える自分の唇まで、何となく緩んでいるようで。
何となく、思いついて灰皿のふちを撫でる。その向こうで永久が不思議そうに笑った。
<終わり>
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