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嫉妬のあとさき2
「あー、そいつ、捕まえて」
開いたドアの奥からすぐさま飛んできた命令に、問い返す暇はなく、状況判断に与えられた時間は一瞬。悠々とした素早さで足元をすり抜けようとする黒い塊を、しゃがみこんで確保し、勢いでよろめく。腕の中でもがく温度、つややかな毛並みのお嬢様を抱きなおしながら、碧は立ち上がった。アトリエのちょうど真ん中あたり、同居猫を追いかけようと踏み出したまさにその姿勢で停止していた人物と目が合う。途端に彼は拍子抜けした顔で、こう言ったのである。
「あれ。なんだ、碧」
「…俺でごめん」
「いや、悪い、そうじゃなくて」
悪びれずにやりと破顔して、煙草をはさんだ指先をこちらに向ける。
「最近アオがね。お客が来ると、ドアが開いた隙に脱走しようとするんだよ」
煙草の先から煙が一筋、ゆっくりと天井に昇っていく。永久がそれを口元に運べば、煙は揺らぎ、形を変えるのだった。
「出てくのはまあいいとして…よくはねーけど。入って来れなくなるだろ、自分じゃ開けられないから。前んとこでは、ベランダからベランダへ移って出入りしてけどさ。ここ絶壁だから、手も足も出なくてな。外に出たくてしょうがないみたいなんだ」
言いながら背後のベランダを振り返り、肩をすくめる。目下の悩みです、と、下がった両眉と、シニカルな角度に上がった唇が語っていた。
「それで、毎日捕り物?」
「そういうこと」
飼い主、飼い猫、両者にとって気の毒な話ではある。しかし、つい笑ってしまったのが事実で、碧は忍び笑いながら脱走犯を床に下ろした。着地の時、少し爪で床を引っかいたかも。アオはそのまま、ソファーの陰に消えてしまった。
煙草を揉み消した永久が、両手を広げる。
「仕切りなおし――いらっしゃい」
「歓迎してもらえるの?」
「…他の誰を歓迎しろっつーの」
根に持った?と機嫌を伺う目線を寄越すから、冗談を存続させるのも難しくなる。ふっ、また吹き出した碧を長い腕で抱きしめて、永久も笑った。Tシャツに染み付いた、バニラに似た香料の甘い匂い。人体を蝕む毒物を愛飲する彼の、象徴的な匂いだと思う。
「制限時間は?」
「そうだな…三十分」
「こんなことしてる場合じゃねえな」
真剣な口調で呟いた永久が、少し顎を引く。
少し顎を上げるのは碧の役目で、絡めるキスを一回。離れる唇と唇の間に未練の糸が伸びるから、もう一度短く触れ合わせ、断ち切る。ギターのストロークのような手つきで左耳のピアスを数度鳴らして、前髪をかき上げながら、彼はカウンターキッチンへ首をめぐらせた。
「碧、座ってて」
「あ、うん」
「コーヒーを淹れるよ」
碧の答えを聞かずに、大股でカウンターの中に回り込む。
「仕入れたばっかの粉があるんだ…まだ開けてないやつ」
独り言じみたトーンだったので、返事をし損ねてしまった。
彼がこの自宅兼アトリエに転居してから、もう一ヶ月以上経っている。必要レベルの高いものから低いもの、あるいはマイナスのものまで、室内の調度品は日々充実しているというのに。大きめのソファーには、ソファーカバーと言い張るには無理のある佇まいの毛布がかぶさっている。はあ、漏れた溜め息は、コンロの音に紛れて彼には届かなかったろう。
「永久」
「んー?」
「まだ、ここで寝てるの?」
ゆっくりと顔を上げた永久が、まばらに染め抜かれた前髪の奥で目を細める。
「ああ、いや、うん。わかってるんだけどね」
碧の希望や警告や忠告を全て先回りして封じる、断固として曖昧な返答。やはりため息混じりに首を振るくらいしかできることはなく、碧はそれ以上の追求をやめ、ソファーに腰掛けた。よれた毛布を手繰り寄せ、たくし上げる。
湯気を上げるやかんの音、まだ開けていないって言ってた、立ち込めるコーヒー豆の香り――。
太ももの一点に掛かった圧力に、はっと、拡散していた意識が集束する。
夜眠れないから昼間眠くなる、メカニズムは至って明快かつ、悪循環は解消しがたい。不眠症の気が強い自分は、こんなふうに、ふとしたシチュエーションで眠りの淵へ誘惑されてしまうんだ。この毛布を共有したいのだろうか、アオがもう片方の前足も乗せてくるので、彼女を引き上げてくるむ。
「一緒に寝る?」
どっちでもいいわよ、とでも言うような、ニャー。
わざわざアトリエを訪ねておいて、わざわざ昼寝をして帰った前科を既に持つ身だ。毛布は全面的に彼女へと譲り、碧はソファーから立ち上がった。
写真家は、自身二度目になる個展を四月下旬に終えた。
小さなビルの一フロアに造られたギャラリースペースには、二度、足を運んだ。点々と、整然と彼の作品が展示されたスペースはギャラリーと呼ぶにふさわしかったが、日常的なアトリエの様子を知っている人間にとっては、よそ行きに澄ました彼を不意打ちに見てしまった気分にさせられる場所でもあった。奥寺永久のアトリエは、無尽蔵な写真で溢れている。ある種のエネルギー、たとえば太陽や核融合が生むエネルギーを幻想的に形容する無尽蔵という言葉を、彼の写真には思わず使いたくなる。点数を数えるのも馬鹿馬鹿しいそれらは、写真家の創造力を示すと同時に、気に入ったものをそばに置いて飾りたいという無邪気で健康的な愛着を感じさせるのだった。
壁だけでなく作業台にも、スクラップのような写真が重なり合い広がっている。
その木製のテーブルの片隅に、押しピンで仮止めされた数枚の写真。それだけが、他と少し違っていた。選別され、抽出されてそこにあるといった雰囲気。押しピンを慎重に抜いて、手に取る。
ビルではない。街の風景でもない、フレームのほとんどを一人の人間が占めている。一人の…少年、の、横顔。美貌と言える。カメラをまるで意識していない、行きずりの表情だ。血色のない白い頬、透ける睫毛、首筋を隠す長さの髪も金色で、遅れて立つ細い糸のような髪は、光に溶けて消えそうなほど。この島国だけで交配を繰り返してきた血統では、持ち得ない色彩だった。
「きれいだろ」
驚いて、一瞬、呼吸を忘れる。
いつの間にか、肩が触れ合うほど近くに永久がいた。
「珍しいね。仕事で?」
小さく揺らして写真を永久に向けると、彼の指先がそれを摘み、同じように揺らす。
「いや。これは個人的に」
「へえ…この子、モデルじゃないよね」
「だろうなあ、たぶん。道歩いてたとこ、捉まえたんだ」
聞く人が聞いたら危ない台詞を、さらりと言ってのける。ただ、永久が写真の人物に対して衝動的な行動に出たのはおそらく本当で、思い出してみれば碧が永久に初めて会った時だって似たような状況だった。
「実物はもっと、きれいな色してるよ」
そう、色。
細長い指が躊躇なく写真に触れて、慈しむように被写体を撫でる。
「レオって名前なんだけど。危うくてね…幻みたいに透明でさ、それがすごく、いい」
どれだけ気に入ったのかは、口ぶりでわかる。嬉しそうな口ぶり。いや、愛おしそうな口ぶりだって、気づいてる?
「ところで。コーヒーいかがですか?」
前置きひとつで、それも給仕の口調に変わったけど。離れようとする永久の、Tシャツの裾を引き止める。
「んっ?」
「この子…あんまり」
っていうか、かなり。
「俺とは似てない、ね」
明るい失笑が、耳元で弾ける。
「そりゃ違うさ。きみとは全然、似てない」
当然だと言い切ってから、ひらめいたようににやりと笑う。
「ああでも、ぴりぴり警戒しながら結局ついて来るとこ、似てたぜ」
自分達の初対面と些細な共通点を見出していたのは、彼も同じだったよう。永久の指が再び写真の角を撫でるので、それを追いかけ、手を重ねる。
「訊いてもいいですか」
「うん、どうぞ」
軽く握り返してくる少しかさついた指から、そっと逃れる。
「これは、あなたの作品?」
「発表する気はねーよ、その意味では、ノー」
「じゃあ、それ以外の意味では?」
くい、と、器用に片眉を上げて、思案の表情をする。ベランダの窓から入る西日に、ほんの一瞬、ピアスが鋭く光った。
「…見た瞬間、きれいだと思ったよ。俺の美意識に適った。その意味で、イエス、だな」
人間は撮らない写真家が、しかしこれを、最も原始的な意味で作品だと断言する。被写体に対する、最上級の賛辞でもある。だけど忘れているのかもしれない、彼の目の前にいる人間が、彼の言葉に感情を左右されることがある生き物なのだと。
「ごめん永久」
「うん?」
「聞きたくない…その話」
永久の横顔を見上げる。
「ああ…そう?」
やはり何かを思案する表情で、しばし沈黙して。眉頭を掻きながら、視線を一度空中に逸らし、彼は小さく頷いてみせた。
「残念だな。きみには伝わると思ったんだけど」
何かの針が振り切れそうになる時って、なぜ、微笑んでしまうんだろう。横目の男がすぐにそれを察し、制するように肩に手を置く。
「――言い方悪かった。言い直すよ、碧、聞いて」
聞きたくないって言った。
肩を払い、床のリュックを拾い上げる。
「碧」
肘を掴む手を、振りほどく。
「ちょっ…」
指先に引っかかる彼の指を、払い落として。
「待っ、わっ」
最後に振り回したリュックは、ガードのためにクロスした両腕にヒットしたみたい。ぎゅっと結んだ自分の唇が、やっぱり微笑む形になっているような気がする。碧は声を飲み込んで、無言のままアトリエを出た。
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