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嫉妬のあとさき5
「あ…」
うねりの形を変える、茶金の髪。普段素っ気ないほど落ち着き払ったハスキーヴォイスも、この時だけは、高くかすれる。
「ね、永久…」
「んっ…」
鼻から抜けた声に、中心の中心が疼く。身体じゅうを感電させ、最後、顎先でぴりぴりと余韻を残すような疼きだ。きつく眉を寄せた顔が、時々泣き出しそうに歪むのは、彼が堪えているのが痛みや異物感だけではないことを証明している。そうやって苦しそうにしているのに、瞑った目の、下りた目蓋だけは心地良く夢見る人のように穏やかで。
「ねえ、とわ?」
それを見下ろす碧を、一つのことへかき立てる。
「目、開けて」
「うん…」
答えだけは従順だけど、ゆっくり首を振って毛布に頬を擦り付けるだけ。
「と、わ」
こじ開けたい欲望。小さな円を描きながら強要すれば、背中を反らせ、薄っすらと目を開けて笑うが、再び薄っすらと閉じてしまう。コミュニケーションを拒んでいるわけではないことは、わかっている。余計な感覚器からの情報はシャットアウトして、ただ高まることが、彼の望みだから。
弾む息がしばらく重なって、やがて少しずつずれる。ストロークの途中にもかかわらず、碧をぎゅっと締めつけ、急かす。慣性のスピードを無視して深く沈めると、か細いあえぎが彼の唇から漏れた。
とりたて気遣うことをしない、日常生活のボリューム。
自由に行き来する小さな足音、一度横を通ったきり戻ってこないのは、もっとゆったりした足音だ。椅子の脚を引きずり、水道から勢い良く水を出し、コンロの着火には一度失敗したらしい。戸棚を閉める音、何かを訴える鳴き声は止まず、アトリエの日常が遠慮なく押し寄せてくる。
「アーオー、静かに」
注意してみせる声だって、全然、静かじゃない。
たまらず目覚めると、そこは、毛布の波の中だった。下になっていた左腕が、麻痺するくらいに痺れている。いくら毛布が敷いてあるとはいえ、床の上だ。
寝返りを打つと、何かがくすぶる焦げ臭さと、バニラの甘い匂いが混在して碧を包む。染み付いた煙草の匂いは、永久の体臭と言ってよかった。
「飯もういいの?」
「ん?ベランダ出る?」
「はいよ――お、天気いいな」
ぽつりぽつりと、一人と一匹暮らしの自然な会話が聞こえてくる。
遠くで漂っていたコンソメの匂いが、次第に部屋中を、そして空の胃袋を支配し始める。碧は何度目かの寝返りをやめ、身体を起こした。毛布をかき寄せながら、ソファーの上に移動する。背もたれ越しにカウンターの中を覗くと、それが見えていたようなタイミングで振り向いた永久に、にやりと笑いかけられた。
「起きたな。おはよう」
「おはよ…今、何時?」
「十一時」
壁掛け時計も、ほぼぴったりの数字を指している。ずいぶんしっかり眠ったものだ。永久は気安い笑顔を崩さずに、さらりと言う。
「起こさなかったのは、わざと。怒ってもいいよ」
碧が寝過ごしたことによって重大な危機が訪れることをも、想定していた口ぶりだ。想定した上で、起こさないことを選択したのは、それがお互いのためだと信じたからだろう。彼の直感は、当たっている。
「…大丈夫」
今日の仕事は午後からだった。
「シャワー使う?」
「うん」
「飯食う?」
「うん」
「どっち先?」
「飯」
一言ずつ交わしながら、距離を縮める。目の前に迫った永久の顔。毛布から出た碧の肩を撫で、また笑う。
「先、シャワーにしたら?」
「いいよ、このまま食べる」
「…飯どころじゃなくなるだろ、俺が」
眠りに落ちるより前にしていたことに衣服は必要なくて、眠りから覚めた後も自分はその姿を維持している。非文明的な、全裸。文明人の格好をした永久には、色々耐え難いらしい。そのくせ面白がるような形をキープした唇に、唇が引き寄せられる…んちゅ、と、たっぷり濡らして離すと、額を小突かれた。
「先シャワーね」
反論を許さずに言いつけると、彼はキッチンに引き返していった。その足取りは、重い。いてて、とこぼしながら、腰をかばう動作を伴っているからだ。正確には、痛むのは片手でさする腰ではなく、その下のその奥、繰り返し攻められた場所だろうけど。
住居兼アトリエがこの建物に変わってから、初めて使うバスルームだ。透明なコックを捻り、簡単にシャワーを浴びる。服を着て戻ると、テーブルの上には食事の用意がされていた。
ベーコンエッグ、豆のスープ、パン。
大きなスプーンに色とりどりの豆をすくいながら、永久が目を上げる。
「碧、何時に出る?」
「昼過ぎ…十二時半くらいの電車に乗りたいから」
「俺も。じゃあ、駅まで一緒だな」
目玉焼きの黄身の色はきれいなピンクで、どうやったらこの色を出せるのか碧にはわからない。同時に、フォークで刺せばあふれ出る、極上の半熟であることを示す色でもある。
「碧」
「何?」
「次、いつなら会える?」
「何。今会ってるのに」
思わず茶化したが、笑い返しながらも答えを待つ態度に、スケジュールに思いをめぐらせる。
「…平日でもいい?」
「うん。きみに合わせる」
「来週、木曜日なら」
軽く頷いて、永久が言った。
「買い物に付き合ってほしい」
厳かなくらい、真剣な口調。
「いいけど」
「ベッドを買おう。俺のために、もちろん、きみのためにでもある」
もちろんの使い方、間違っているような気がするけど、あまりに真面目な言い方なので、なんとなく反論し損ねてしまう。前髪をかき上げながら、やはり、彼は真剣な口調だった。
「ソファーも床も使ったからさ。次は、ベッドで、だろ」
順番が変だと文句を言えなかったのは、熱くなった頬を取り繕う方法はないかと、一瞬、果てしなく無駄な考えに気を取られたせいだ。まじまじと見つめられ、ますます熱くなる。
「あんなことまでするくせに…ここで照れるんだなぁ」
「うるさいな…あんなことまでされたくせに」
「うん。された、された」
軽やかに笑うだけで、否定しないのだから。
永久はその瞬発力のある笑顔を引っ込めて、再び真顔になる。
「それと、ドア」
「ドア、って?」
「猫用ドア。予算が許せばだけどね…」
脱走したい猫、追いかける飼い主。毎日それを続けているのだろう、少し疲れたため息を吐いて、ベランダに首を伸ばす。
「いつかベランダからダイブするんじゃないかと思ってさ」
絶壁の、地上三階。
「…由々しい問題だね」
「由々しいんだよ」
彼はまた一口、たっぷりすくった豆を口に運んだ。
「…アオといえばさ」
「あ、うん」
「グザヴィエの写真に、すげえ青があるよ」
猫ではなく色の名前だったと、遅れて気付く。
「古い作品集なんだけど…しかも、俺も持ってないんだけど」
「もしかしてプレミア?」
「何しろ絶対数が少ないからな。大学にはあったけどね、いつか見せてやりたいな」
巨匠の弟子が誇らしげに言うのに、碧は首を振った。
「俺は、あなたの写真がいい」
早朝の色素を抽出した一枚は確かに好きな一枚だったが、青い写真なら好きだというわけではない。
「俺の?どこがいいの?」
揶揄うような、試すような質問。
「全部」
と、答えると、
「それ、褒めるところがない時に使う言葉だぜ?」
永久は不満そうに片眉を上げた。
<終わり>
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