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きみ行かば1
木曜日の約束を反故にしたのは、予定通りオフだった自分ではなく、急な仕事の入った写真家だった。
前夜に急遽舞い込んだのは、とある商品の付加価値として求められる写真の撮影依頼だったらしい。彼が精神からそれに対峙して捉えた風景は、一枚で一冊の論文にも匹敵するような、寡黙にして雄弁な作品となる。「作品」の上に冠することが前提の、「芸術」の二文字。いわゆる芸術家の彼はしかし、それだけを追及していても生活が立ち行かない、商業写真家としての面をも確かに持つ人だ。必要と必然と、無視できない偶然によって枝葉を広げた彼の人脈の、下流から逆流してきた一件の依頼。断る理由はない。現段階の彼にとって、コネクションが増えることでまだ知らぬ未来に訪れるかもしれない不自由を恐れるより、銀行口座への振込みが数週間後に確約された仕事のほうが、ずっと現実的だから。もちろん自分自身に置き換えても、先々のスケジュールを適度に埋めることは、生活を保持することと、それほどかけ離れた意味を持たなかった。
上手くといいねと電話口で送り出してから、次の約束を取り付けなかったことに気づいたのだけど。そんなふうに、なってみなけりゃわからない、なんて予定にすっかり慣れてしまった自分達にとって、それはあまり重要なことではなかったのだ。
それから数回、正確に言えば三回。この日なら大丈夫、とどちらかが自信を持って確定し、どちらかがそれを否定した回数である。その二週間で月が変わり、関東地方に梅雨入りが発表された。永久の家のベッドルームは、いまだ空室のままなんだろう。一緒にベッドを選びに行く予定が延期を繰り返すたび、それまでのらりくらりとソファー生活を続けていた彼の本心に近づくようで、その強運に呆れたい気分にさえなったものだ。
だから、ようやく休みの重なった今日。自分がショッピング(それも大きな買い物)に対して臨戦態勢だったのは、無理ならざることだった思う。
改札口で待っていたのは、ベージュのTシャツに、擦り切れた仕様のジーンズ、履き潰したスニーカーという軽装の男。ありふれた服装でも、平均線から頭ひとつ分高い位置の金茶色の頭と、フェイスピアスが、人通りの中でも決して彼を埋没させたりはしなかった。
「晴れたなあ。ま、70点ってとこか」
曇りがちな晴天を仰ぐと、脱色した髪がさらりと落ちる。
「80点あげてもいいんじゃない?」
梅雨の合い間に覗いた事実を考慮して、10点加算してから提示した碧を、永久はにやりと笑った。
「そうだね、きみもいることだし。デート日和とすることにしよう」
機嫌よく与太を飛ばす横顔を思わず見上げると、やはり待ち受けていたような笑顔に捉えられる。碧は帽子のつばをぎゅっと、目深に引いた。
「…で?どこ行くの?」
指定されたこの駅周辺には、家具とかインテリアとか聞いて想像できる類の店はなかった気がする。自分が思い当たる限りは。半分は純粋な疑問、半分は礼儀として尋ねたのだが。
「まずは、公園まで歩く」
永久はきっぱりと宣言し、目線と顎で駅舎の先を示した。
正午前の並木道を歩くペースは、散歩のペースだ。
木漏れ日と呼ぶには弱い光、車の音、ドライなテノールの世間話がそれに混じって届く。長い並木道が終わると、某省庁に続く大通りを進むのではなく、一本の路地に入る。ぐっと狭まった景色の主な色彩は、コンクリートの灰色と、曇り空の水色、フェンスの向こうに雑草の緑が少々。
「よく通る道?」
「そうでもねーな。前に一回通っただけ」
フィールドワークによって養われた土地勘は彼の強みだろうけど。そうでもない、の使い方を間違ったのは、きっとわざと。
「お、猫ねこ、キジトラ」
突然言うや否や、永久が大股で歩き出し、車止めをひょいと跨ぐ。
碧が追いつくと、彼はぴたりと動きを止めた縞模様の猫の前にしゃがみ込み、器用に喉を鳴らしたりしながら懐柔作戦を開始していた。アオという猫を知ってから、自分も少しは変わったけれど、永久のように大胆な行動には踏み切れない。
首や胴体をゆっくり撫でる永久の仕草を、碧は背後から眺めるだけだ。
「人慣れしてるなあ、お前。どこの猫?」
猫相手の親しい口調のまま、こちらを見上げて笑う。
「碧も撫でる?」
「…俺はいいよ」
「遠慮しなくていいのに。大丈夫だよ、大人しいから」
「永久が相手なら、そうかもしれないけど」
猫慣れした人ならともかく、慣れない自分が手を出したら逃げてしまうかもしれず、そうなった場合結構傷つくな、とか思ってしまったのだ。察してくれたのかどうかはわからないけど、それ以上勧められることはなかった。
気の済むまで構った猫と永久が別れ、公園の奥へ進む。途中、ブランコの鎖に手をかけて、わざわざ跨いで通るのだから。平日の昼間でも、敷地内にはそれなりに人がいたが、ほどよい無関心に満ちていた。遠くの葉桜に向けていた視線を近くに戻せば、フレームのほとんどを、すぐ前を歩く人の背中が占める。華奢ではないが痩せ気味の、スマートな背中だ。伸びた襟足の毛先は傷んでいて、透けてしまいそうな金色をしている。尻ポケットに引っ掛けた左手、人差し指に太いシルバーリングを嵌めたその手の角度が、手を繋ぎませんかと招くように罪な角度をキープしていることなんて、気づいていないのだろう。
「心ここにあらず?」
肩越しにふと声を掛けられたことと、その内容に、驚いて顔を上げる。
「え、何で?」
「さっきから、黙ってるから」
「…そうかな。あんまり、意識してなかった」
「なるほど」
素っ気ないほどあっさりと、頷かれる。身体の中から抜け出した心はたぶん、手招きの角度に従って永久に近づこうとしていたんだ。言えばきっと共感してくれるだろうけど、それを呑み込むくらいの分別はある。碧は永久を追い抜き、一歩先んじた位置から後ろを振り返った。
「ねえ、永久」
「ん?」
「カメラ、持って来なくてよかったの?」
ポケットに引っ掛けていた左手を挙げ、写真家はルーズリーフピアスを弾く。
「デートにカメラは邪魔だろ?」
「もういいよ、それは」
確かに事実の一端を表す資格のある単語だけど、さっきからそんなに強調して、どうしろって言うんだ。呆れて笑う碧に、
「よくないっての」
彼は真面目くさって表情を引き締めるのだった。すぐに、悪戯っぽく口元を綻ばせたとはいえ。
公園を突っ切って、車止めを抜けると、大通りに出る。しばらく歩けば駅が見えてきて、これで一駅分歩いた計算になった。
永久はやはりジーンズのポケットから、裸の硬貨を取り出して、券売機に投入している。ボタンを押す瞬間を見逃したせいで、再び彼に問いかけることになった。
「どこ行くの?」
「渋谷」
そう、答えは常に明快なんだ。ただ、断言されるたび、どんどん混乱していく自分がいる。手渡された切符の金額と、ピアッシング過多の顔を見比べながら、渋谷、と碧はおうむ返しに呟いた。
「じゃ、電車乗りますか」
「あ、はい」
かつて、と言うほど遠い過去ではない。ほんの数ヶ月前まで、永久はこの街に住んでいた。細い裏路地を奥へ奥へ進んだ先にある、時代遅れな印象ばかりのアパートの一室が、彼の住居兼アトリエだったんだ。巨大な交差点、賑やかな雑踏、立ち並ぶ店舗ビル、広告塔やスクリーン。今こうして歩いている街と区画は同じでも、それらを傍観するかのごとく静かな――ただしガードに近く、電車の音はうるさかった――静かな場所だった。
「まだちょっと時間があるんだよな」
また、平坦なテノールによって、浮遊した心が呼び戻される。
「何の?」
「人と会う約束しててさ」
今度のは、とびきりの初耳だ。
「誰?」
「佐伯(さえき)さんって、憶えてる?フライング・ソーサーズの」
「あ、うん」
突拍子もない単語が次々に出てくるから、口を開いて閉じるだけの単純な発声しかできない。佐伯は、永久のアトリエに転がり込んでいた短い期間に、彼を介して顔を合わせた人物だ。憶えているというか、最初から知っていたというか。容貌や声こそ会うまでは未知だったが、佐伯の存在はそれ以前からメディアを通して知っていた。The flying saucersという名前、クラブミュージックという分野では世界的に有名なその音楽制作集団の、代表としての存在は。そして、昨年発表されたThe flying saucersのアルバムと、ライブツアー用の美術は、奥寺永久との共同制作によるものだった。
「…約束って、仕事の?」
「そんなわけないだろ」
心外そうな顔をしないで欲しい。碧に不必要な質問をさせたくないなら、彼はもう少し、情報を与えるべきだろう。
「ちょー私用。行ったらわかるよ」
「…でも、まだ時間がある、と」
「その通り」
生徒を褒める先生の横顔が左右に振れて、がやて彼は、交差点の向こうを指差した。
「取りあえず、腹ごしらえしようぜ」
「いいけど…」
「ジャンクフードに呼ばれてるんだけど、いい?」
「はは。いいよ」
指差していたのはまさに、ファーストフード店の看板だった。
自動ドアをくぐると、前の客の注文がちょうど終わったところらしく、すぐに注文を訊かれる。ブレンドコーヒーにフライドポテトという希望は、隣の人物に、フィッシュバーガーのポテトセットに言い直されてしまった。
番号札を受け取った永久は、ガラスの向こう、喫煙席に直行している。ドアを開閉しなければ出入りできない、完全に隔離されたガラス張りのスペースは、動物園の檻のようでもあるなと思う。喫煙家、それも重度のニコチン中毒者にとっては、喫煙可というたった一つの条件下でさえあれば他は構わないのだろう。
手荷物を持たない彼は、全ての持ち物をジーンズのポケットに納めている。尻ポケットから取り出した、へこんだ煙草ケースからとびきり強い一本を取り出して、美味そうに吹かす。煙は、とびきり甘ったるい匂いがする。
「どうせ朝飯も食ってないんだろ?」
「…うん」
「俺の前でだけでも、ちゃんと食うように」
やましいことがある時の人間の反応は、ごまかすために相手の目をじっと見るか、ごまかすためにそっと目を逸らすかのどちらかだ。今の自分は、後者。大して空腹でもないのだと、そんな言い訳が、見透かす瞳を持つ相手に通用しないことくらいはわかっている。
帽子を被ったままだったことに気づいて外すと、向かいに座る永久に、髪の毛が逆立っているとジェスチャーで揶揄われた。
「佐伯さんって…この辺に住んでたんだね」
待ち時間を繋ぐ当たり障りのない話題提供に、咥え煙草に頬杖を突いた姿勢で、永久が応じる。
「あるのは事務所で、住んでんのは別のとこだけど」
「ああ、そっか」
「俺が向こうに引っ越すのと同じくらいのタイミングで、佐伯さんが事務所をこっちに移転したんだ。ほとんど入れ替わりで。作意を感じるよなあ」
「あなたと一緒の街には、住みたくなかったって?」
「そうそう」
「偶然じゃない?」
「ま、そうだろうけど」
作意を感じるとか言っておきながら、その直感に責任を取る気はないらしい。頬杖をやめた永久は、今度は背もたれに寄りかかり、灰皿に煙草の灰を落としている。そのうち急にふっと笑うから、身構えてしまったではないか。
「…何?」
「いや、歌詞がさ」
天井のスピーカーを指す動作に、つられて目を上げる。頭の上のぼんやりとした空気の振動が、霧が晴れるように、音楽に変わった。乾いたドラム、ギターのカッティングに交わる、訛りの強い英語。
「すげー、えげつないんだよ」
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