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きみ行かば2

 碧が食べきれず残した二切れのポテトを、摘み上げて続けざまに口に放り込む。 「さて、行くか」 「うん」  長居は無用と席を立つ永久にトレイを奪われ、持て余した両手で帽子を被りながら追いかける。ファーストフード店の目と鼻の先に、佐伯の事務所はあった。建ち並ぶオフィスビルの中で、煉瓦調の茶色い外壁が目を惹く。エントランスの壁に打たれたプレートの、上から五番目に刻まれた事務所の名前を、ここだよというように永久の指がなぞった。  狭いエレベーターに導かれた五階。エレベーターホールから通路の形に添って、左に曲がって直進する。すぐに、シンプルな黒いドアが見えた。 「あと十分早かったら、ぴったりだったな」  ドアホンを鳴らす前、腕時計を見て永久が笑ったが、もし佐伯が時間に厳しい人物であるならそんなふうには笑えないだろう。ややあって、ドアが開いた。 「来たな」 「来ましたよ、連れて」  永久は奇妙な語順で応えて、傍らの碧を手振りで示す。太いセルフレームの眼鏡の奥で、佐伯がわずかに目を細めた。 「小田島君。俺のこと憶えてる?」 「もちろんです…以前、ライブで」 「よかった。ま、とりあえず入ってよ」  気安い仕草で招く人、気安い仕草で招かれる人、それに遅れて続く人。右手側の入り口から、まるで小さなギャラリーのようなスペースが見える。窓のないその部屋は、ライトの柔和な乳白色に溢れていて、本物のギャラリーよろしく、壁に並べて掛けられた極彩色の絵が二枚。真ん中に長いテーブルと椅子があったから、打ち合わせに使う部屋なのかもしれない。すれ違った数人のスタッフが、笑顔だったり、会釈だったり、簡単な挨拶だったりを送ってくる。写真家と顔見知りのスタッフが多く、概ね好意的な彼らの反応が、おこぼれとなって碧にまで向けられたのだろう。 「僕らが見えなくなった途端、騒ぎ出すと思うよ」 「なんで?」 「僕も含めてミーハー集団だからさ、うち」 「あぁ」  同時に振り返った二人の口元には、二種類の微笑が浮かんでいた。永久の微笑から、大丈夫だよ、のテレパシーを一方的に受信する。何がってわけじゃなく、つまり、シニカルな笑顔に安堵を感じるくらいには、身構えていたんだと思う。  突き当たりの少し奥まったドアを、佐伯が開ける。 「どうぞ」  通された部屋は、圧倒的な木の質感があった。壁のほとんどを隠す大きな本棚、木枠の窓から街路樹の影がちらついていて、それを背にどっしり大きな書斎机が構えている。それまでのモダンな雰囲気との不調和こそないが、スタイリッシュなデザイン性より、日常を刻む家具の普遍性を強く感じる。やりかけの作業が見えてきそうな、整理しきれない雑然さが生々しくもある部屋だった。 「座ってて」  鷹揚に椅子を勧める佐伯の、濃い顎髭と眼鏡の似合う若い医者か教授のような風体とあいまって、研究室とか執務室のようでさえある。立て掛けられたエレキベースと、シンセサイザーが、アイデンティティを主張しているようだった。 「ちょっと待って…今出すから」 「用意悪ぃなあ。出しといてくれればいいのに」  本棚の高い段に手を伸ばす佐伯に、永久が茶々を入れる。年上の、それも有名なプロデューサー兼コンポーザー相手に友達口調が許されるのは、佐伯の寛大さに加えて、不遜さと憎めなさの同居した永久のキャラクターの特権だろう。The flying saucersの代表としての佐伯と、彼に見込まれてアートワークに加わることになった写真家という関係においては、主導権と決定権は佐伯にあり、永久にとって思い通りにいかないことがあまりに多かった。前に、そんなふうに言っていた気がする。 「もったいぶるのが好きなんでね」  含み笑いの佐伯が、一冊の大判の本をテーブルに置いた。重厚な本だ。 「お待たせ。汚すなよ」 「だってさ、碧」 「奥寺君に言ったの、僕は」  表紙を見つめる自分の耳を右から左に、彼らの声が通過する。碧は顔を上げて、隣の男を詰問した。 「…状況がわからないんですが」  実際のところ、トーンは救済を求めるそれに近かったけれど。この局面でも、なお答えをはぐらかす気はないようで。永久は生真面目な表情を作り、傷とつやの同居する硬い表紙を指先で叩いた。モノクロに限りなく近い、影を強調した写真。その中に一箇所だけ、無邪気な悪戯書きのように強烈なオレンジ色が覗いている。 「これは、俺の師匠の作品集です」 「――あ、ほんとだ。そうですね」  Xavier Sagemanと白く抜かれた英字フォント。 「六十年代後半の出版物です。ものすごく入手困難で、ものすごく高いです」  トン、トン、指先のリズムに乗って告げられた言葉に、記憶をくすぐられる。 「もしかして前に、持ってないって言ってた?」 「そう。俺が持ってないのに、佐伯さんが持ってたんだよなあ」  腕組みをして立つ人物が、したり顔で笑った。 「まあ、情熱の差でしょう」 「佐伯さん、仕事にかこつけて何ヶ国回ったんだっけ?」 「忘れた。でも出会ったのは、なんと、パリだぜ。弟子より僕を選んだわけだ、運命は」 「よく言うよ」  気の利いたジョークでも交わしたみたいに満足げな顔で、二人してまた碧を見るのだ。この二人が完全にグルならば、情勢は今、二対一というわけ。 「グザヴィエの写真に、すげえ青があるって、こないだ言ったろ?」 「あ、うん」 「きみはあんまり興味なさそうだったけど」 「あ。うん」 「俺は見せたいと思ってたんだよ。きみが思ってるよか、問答無用で、クるから。佐伯さんの長い自慢話が、天啓にすら聞こえたな」  腕組みで立った姿勢は変えずに、佐伯が今度は、顔をしかめて笑った。 「熱望の末に手に入れた本だからね。まあ、直弟子なんて羨ましい身分の奴にタダで貸し出すのは癪だし、小田島君の名前を聞いて、交換条件を出すことにしたんだよ」 「見せたいなら連れて来いってさ」 「一ファンとして、いや、サジュマン氏じゃなく、小田島君の。表現の糧になるなら、と」 「一ファン、のとこに、相当比重が傾いてるけど」 「何しろミーハーだから」  軽妙に続くかけ合いが、表紙をめくるムードを高めているのだと悟り、碧は厚いカバーに手をかけた。  ここが、初めて訪れた、二度目に会う人の事務所という事実や、今が現実であるという真理より、写真の中の時空のほうがずっと近い。  四十年前の、若き日の巨匠が記録した都市。記録、と言いたくなるように淡々とした佇まいの写真には、西暦の四桁に始まり分単位まで精密に時刻が記され、ほとんどの場合パリの地名が短く書き添えられていた。時刻と地名を書き込むシンプルなやり方は、それ自体特別な手法ではないが、彼の弟子が好んで使う方法でもある。半分聞き流したレクチャーによれば、サジュマンの活動と精神の拠点はこの後パリからニューヨークへと移り、顧みれば、この作品集は「初期」に区切りをつけた貴重な一冊になったのだという。  その青は、ページの中ほどにあった。  距離感は、たとえるなら横断歩道の向こうから、くらい。目線のままの角度で撮った、アパート郡なのだろうか、奇妙なほど薄いと思える建物は、しかしどこまでも奥へ奥へ並んでいる。人も、車も写りこんでいない。あるのはどこまでも続くような建物だけだ。夜更けの最後か、朝の始まりか、どっしりと重力のある青。青地のキャンバスに、黒のペンで綿密に風景を描画したようなコントラストが、やはり強烈だった。  ゆっくりと最後のページまで見て、また、青いページを開いている自分がいる。  カシャ。  安っぽい電子音の正体を、意識より先に身体が探す。  いつ席を離れたのだろう、真横に立った永久が携帯電話のレンズをこちらに向けていた。 「…カメラ、いらないんじゃなかったっけ?」 「これにもカメラがついてたことを、きみが思い出させたんだよ。うん、なかなか良く撮れた」 「自画自賛する」 「違うって。被写体を絶賛してんの、俺は」  あ、結構きわどい会話だな。なんて意識過剰な焦りは、見回した室内に佐伯の姿がないことで、不発に終わる。 「佐伯さんは?」 「碧、それ本気で言ってる?」 「うん」 「見終わったら来いっつって、出てったんだけど?」 「あ、そうなんだ」 「さすが、集中力あるなあ」  揶揄うように片頬だけで笑った永久が、ちらりと碧の手元に目を落とす。 「その青だよ」 「わかる」 「そっか。どう、気に入った?」 「…気に入ったっていうのとは、ちょっと違う」 「ちょっと?どう違う?」 「言い訳に聞こえるかもしれないけど。思考とか言葉とか、身体とか…全部放棄するのが、俺にとっては一番馴染む。すげえ青、としか言えない青だね」  永久は、無言で口元を緩めた。  ああ、この人が、この写真を撮った人の弟子なんだ。率直な感動が血液と一緒に体内を巡り始める。現実として、知名度や実力で「サジュマンの弟子」という地位に甘んじなければならないとしても、そのことだって大切に思える。我ながらすごく、直感的だけど。  表紙を閉じた碧の肩に、痩せた手が乗せられる。 「行こうぜ。佐伯さんが、きみと話したそうにしてたからさ。お茶呼ばれついでに、少し、相手してやったら」 「はは。さっきから思ってたけど、酷い言い草じゃない?」 「いいんだよ。仕事じゃ、こうはいかないんだから」  もう一度、今度は肩を叩かれて、碧は立ち上がった。

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