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きみ行かば3
薄っすら広がる雲のフィルター越しに届く、薄っすら弱い太陽の光でも、屋外へ最初の一歩を踏み出した時のインパクトには足りる。遅れてエントランスから出てきた永久が、碧がそうしたように少し空を仰いで、眇めたままの目をこちらに向けた。彼は何を言うでもなく、また碧が何を答えられるでもなく、場面転換を待つ沈黙が漂う。
コホン。拳に息を吹きかけるような永久の咳払いが、合図になった。
「なんか、質問攻めにされてたね、碧」
「そう?」
「あ。慣れてますか」
「そんなことないけど…佐伯さんって結構、議論好き?」
「結構というか、相当というか」
コーヒーをちびちびと減らしながら三十分程度、芸能界に入ったきっかけから尊敬する俳優、最新の撮影についてまで。インタビューだとしたら初級編のラインナップで、雑談にふさわしい取り留めのなさだった。ただやはり、グザヴィエ・サジュマンの作品集を差し出す時、「表現の糧に」なんて言い方をしてくれただけあって、「そっち」方面の話題を掘り下げるパワーは並のインタビュアーはだしだった。思考回路に何度か短く走らされた電流が、今も、静かな余韻となって身体に留まっている。
「理論を軽視しない人なんだよ。なんとなく、なんて理由をあの人は許さないね。話長いし」
「…類友だよ、たぶんそれ」
「そりゃどーも」
碧が失笑を噛み殺したことに、気づいたからかもしれない。永久は鼻筋に皺を寄せ、顰め面を作って見せた。それから皺くちゃの鼻筋を、今度は伸ばすように撫で始めるので、また笑わされる。
「永久、訊いていい?」
「何でもどーぞ」
多少気分を害していても、質問には気軽に応じてくれる。
「佐伯さんの色は?」
「うーん…緑、あ、グリーンのほうな」
唐突なひらめきによる質問だったが、考え込む時間は短く、答えは明快だった。単なるイメージカラーを超越した話だが、永久の口ぶりは極めて真面目である。
「どんな色なの?」
「うん?知性、悠久ー…前進、平和」
「前進、平和?」
「そう。けっこう当たってると思うぜ」
革新的であるけれど、破壊だけにそれを見出すわけではない。彼の音楽には確かに、平和的な幸福感がある気がする。
「でもさ。俺よりよっぽど、碧のこと知ってるんだよな」
少し物思いをしていたのと、変わらず素っ気ないトーンだったせいで、反応し損ねてしまった。いや、反応を期待して言ったのではないんだろう、永久は気にしたふうもなく言葉を継ぐ。
「佐伯さんだけじゃなくて、たぶん、俺よりもきみに詳しい人間はたくさんいるんだよなあ」
「そんなこと」
「ない?」
碧の反論を封じ、ないわけないだろう?と断定の疑問符をかぶせる。碧は帽子のつばをほんの少し傾けて、視界の中の永久の割合をほんの少しだけ高めた。
「言ってなかったかもしれないけど、俺、時々映画とか出てるから」
「わは。うん」
「だから、それは仕方ないよ」
全てのことを自分自身に投影させて、それがメディアを通って伝わる職業。大きくメディアと括れば、ミュージシャンや写真家も同じかもしれないが、容姿やシンボルとしての名前が全面的にそれと関わるのは、やはり「芸能人お仕事」だと思うから。
「…時々、まだ、割り切れねーんだよな」
今さら講釈しなくても、彼は理解している。違うのは、碧にとってどこか他人事の事実にも、恋人の気持ちを波立たせるのにはじゅうぶんなマイナス要素があるということ。そして、弱ったふりを気取った呟きに隠れているのは、碧にある種の快感を与えるプラス要素なのだから、救いようがないのはたぶん自分のほうだ。
「割り切ってください。だって、俺個人についてあなた以上に詳しい人は、そんなにいないんだから」
「そんなに、ね。たとえばほくろの位置とか、そーゆー?」
また、冗談のきわどさに焦らされる。誰に聞かれているわけでもないし、聞かれたところで実際の位置を知るのは、まさに永久一人だというのに。背中に軽いパンチを見舞うと、彼は胸を震わせて笑った。
結んだ拳を開いて、握って、開いて。
「――で、どこ行くんだっけ?」
生命線と思しき曲線を眺めながらの質問は、隣を歩く人物の耳にしっかり届いたよう。ただし、答えは、街の名前でも店の名前でもなかった。
「行くんじゃなくて、帰るの」
「え?」
「え、って。俺なんか、難しいこと言った?」
面食らった碧の反応に驚いたんだろう、永久の顔にもきょとんとした表情が浮かぶ。碧は白旗を揚げる気分で、手相の側を彼に向けた。
「ベッドを買うんだとばかり思っていたから…」
どうせまた、わかったようなわからないような答えが返ってくるのだろうと、覚悟を決めていたのだが。
「ああ、うん、それと猫用ドアね」
あまりに簡単に即答されたから、反論のために回転を始めていた脳みそが、あっけなく空転することになった。
「…そうだった。猫用ドア。必要ないの?」
「いや、それがさ。開けろ開けろってアオにせがまれてから開けに行ってやるのが、悪くないっていうか。そこに喜びが全くないとは言い切れないと、日々、気づかないわけにはいかねーんだよ」
問いかけはむしろ、猫用ドアではないほうに掛けたつもりだったけど。意図的にだろう、ベッドからは話題を逸らし、愛猫家はにやつきながら至言めいたことを言うのだった。
総合大学を抱える、アトリエ最寄の駅で降りる。行くのではなく帰るというのは、つまりこういうことだ。
「持たないかもなぁ」
「何?」
「天気」
蒸し暑さを手で払う仕草のあと、永久が呟く。彼が言うのだからその内降るのだろうと、考えるより先に納得してしまうのは、天候の変化に対して今よりもっと無関心だった頃に感じた、永久の嗅覚への驚きとか神秘とかが原因だ。ふうん、と、相槌を打った意味は特にない。
ひとつ向こうの路地へ入れば、アトリエはすぐに見える。最上階に彼が住んでいる以外は無人の建物だから、いつもひっそりと静まり返っている。先に立って階段を上る永久の、ジーンズの金具がかすかに音を立てるのが聞こえるくらいの静けさ。
チェーンでジーンズと繋いだ鍵を、尻ポケットから引っ張り出す。開けたドアから、くすぶるような煙草の残り香が漂ってきた。
奥から駆けて来るのは、もちろん、留守を任されていた同居猫。出迎えなのか、たまたまなのか、飼い主にとってはどちらでも構わないらしい。
「アオー、ただいま」
優しく言って、彼女を抱き上げる。
「碧に挨拶」
「…それはいいけど、アオ、何咥えてるの?」
「ん?あ、お前、どっから持ってきたんだよ」
彼女が誇らしげに咥えてきたのは、革紐が何重かになったブレスレットだった。この家でそれを身につけるのは、本来、猫ではなく人間のはずだ。やや強引に奪われて、アオの美人顔は少し不満そうになったかもしれない。
「お腹すいてるって意味?」
「いや、猫の習性。狩猟と施しの」
床上に解放されたアオは、また軽い足取りで廊下の向こうへ行ってしまった。
いつもそうであるようにソファーを勧められるつもりで、身体がそちらへ向こうとしたのも習性だろうか。碧の肘をそっと掴んだ永久は、しかし、ソファーではなく廊下の入り口を顎で示した。
「案内したいとこがある」
「案内?」
「そう」
「隠し通路があった、とか」
本来の間取りを失った、段差のある広いスペースは半分リビングで半分アトリエ。廊下の奥は、表と比べて私的な部屋が二つ。一つは書斎と呼べるもので、一つはベッドルームと呼べないものだ。まさか他に、今になっても知らない部屋でもあるのだろうか。碧の冗談に冗談を返してくれないから、本気でそんなふうに思いたくなる。
二つのドアのうち、奥のドア。ベッドルームのドアの前にはアオがいた。正確には佇んでいるわけではなく、入りたそうにドアに前脚を掛けて、こちらを振り返っている。
「これだよ、この、ドアをあけてやるって行為が、実は喜びなわけだ」
言葉通り楽しそうに言いながら永久がドアノブを下げ、引くと、アオはその隙間から滑り込んでいった。
「どうぞ、碧も」
さらに大きく人間サイズまでドアが開かれ、戸惑って永久を振り返ったせいで、気づくのが少し遅れたんだ。目配せの先の、それに。
「…怒らない?」
「何で、怒ると思うんですか」
思わず怒った声になったけれど、驚きがそうさせただけ。もう一度永久を振り返ると、真剣にしょげた顔をしていたから、怒った声のまま笑ってしまった。
「怒らないよ」
「本当は…いや、本当に。きみと一緒に選ぶつもりだった」
「うん。そうしなかった理由があるって意味?」
「碧は鋭いな。そうだな、タイミングが、この時しかなかった。ごめん」
金茶の髪とピアスを揺らし、頭を下げる動作が少し子供っぽく映る。碧はメッシュの髪に指を入れ、撫でた。
「俺はただ、一緒に行かなきゃ、あなたがいつまでも買わないんじゃないかって思い込んでただけ」
「事実そうだったんだよ、ついこの間まで」
「いつ?」
「買ったのは先週、来たのは一昨日」
「ねえ、永久」
「ん?」
「怒ってないし、わかったけど」
「う、はい、けど?」
「今日、ずっと黙ってたのは、わざとだよね?」
性質の悪い男だ。前髪の奥から覗く目が、途端に、悪戯っぽく輝く。ルーズリーフの耳を引っ張ってやると、
「ちょっ、いて、ごめん」
痛がるふりをしながら、満面に無邪気な笑みを浮かべるのだから。
深い色の板を繋げて折った、大きなベンチのような、アスレチックの一部のような形だ。脚は短く、そこだけは金属の銀色をしている。上に載せた分厚いマットレスはマシュマロの白、下半分にぞんざいに被せたシーツの茶色が、チョコレートが垂れるみたいに床にこぼれている。
真新しいベッドの上では、アオが心地よさそうに身体を伸ばしていた。
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