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きみ行かば5

 雨は知らぬ間に、音を立てずに降っていた。  糸のような小雨だ。窓の外は、時間という概念を失わせるどんよりしたグレーに染まっている。放心状態からの回復を妨げる、永遠のグレー。  添い寝の永久に前髪をかき上げられて、頬をあやされていたのは、白昼夢の中の出来事だったのかもしれない。今、碧を包んでいるのはシーツであって恋人ではないから。  薄明るいと薄暗いの中間、色数の少ない部屋を、首と目だけを動かして見回す。遠くの風景のように見ていたそれが、永久のヒップショットであることに気づき、落ちた下着を拾い上げて履くまでの彼の動作をぼんやりと眺めていた。  重い身体を、ゆっくりと動かす。鑑賞に適した姿勢を得るためだったが、気配を感じたのだろう、永久がくるりと振り返る。 「起きたのか」 「ねてたんだ…」 「少しだけな。十分くらい」  それを聞いて、なんとなく、起き上がる気が失せてしまった。マットレスに体重を預け、目蓋が落ちるのに任せる。身体の奥の、ねっとりした異物感と、冷めない灼熱。頭のすぐ傍が少し沈み、目を開けると、産毛をまとった太腿があった。 「寝ててもいいよ」  手のひらで碧の目を覆いながら、もう片方の手で煙草に火を点けたんだろう。ライターの擦れる音、深く吸うための沈黙、次いで濃厚な匂いが広がる。 「あのさ、碧」  寝ててもいいって言ったくせに、話しかける。子守唄にはとてもならないと、きっと、わかっていて話し始めたんだ。 「しばらく、ここ空けるよ」  予感があった、なんて言ったら嘘になるけど。ひどく驚いたり狼狽えたりはしていない自分がいる。 「そう…どれくらい?」 「遅くとも、秋と一緒に帰ってくる」  季節ごと委ねられた答えは、決して、短い期間ではなかった。 「いつから?」 「来週中には出発する予定」 「どこへ?」 「北アメリカがメインになりそうだな」 「ついて行こうかな」  碧の睫毛をかすめるように撫でていた指が、一瞬止まり、また動き出す。 「――もしそうなら、歓迎するよ」  なり損ないの冗談に後悔なんてしていないし、含み笑いの永久にごまかしがあるとも思わない。「もし~なら」という仮定法は、あくまで仮定の領域を出ない。不意に悟らされたのはそのことだったが、たとえば単純な文字式を解いた時の、純粋な理解に近かった。  永久の手と、それが作っていた陰と、表面の温かさが離れる。 「今回は、師匠のアシスタントで行くんだ」 「ああ…そう」 「下働きの日々よ再び、だぜ。ま、あの人、歳だし。こないだ体調崩したばっかでさ。ほっとけねえの」 「永久。誰に言い訳してるの?」  だるい腕でなんとか手枕を作ることに成功した、彼の恋人に、だろうか?見上げた永久の、大きく両眉を下げた顔が、やがて失笑で歪んだ。唇から煙草を外すと、持て余したように指先で躍らせる。 「心残りを減らしたかったのかもなあ」  人差し指から中指へ器用に渡った煙草の先から、灰がこぼれる。 「約束くらい果たしてから、ってさ」 「約束って?」  煙草は吸うものだと、すぐに思い直したようだ。彼はフィルターを咥え、自由になった右手でピースサインを作って見せた。 「真面目に訊くよ。忘れたっていうより、憶えておく必要がなくなったってこと?ベッドのことは、俺にとってもじゅうぶん呪縛だったんだぜ」  立てた二本の指のうち、人差し指が、ちょいちょいと招くように動く。 「あ、そうだった」 「二つめは、グザヴィエの青。こんなに早く見せてやれるとは、思ってなかったけど」  その二つが彼にとって、おそらくそれほど重要度に差のない「二大最重要課題」だったんだろう。こういうところはシステマティックな思考回路なんだなあと、感心したくなる。目だけで頷いた碧に、やはり目だけで頷き返して、永久は言った。 「向こうでもさ、最後に会ったのいつだろうとか、ベッド買わないまま出張したからきみが怒ってんじゃねーかとか。色んなこと言ったけど結局何にも実行してないや、と、あれこれ考えないように」  自分の言葉に自分で納得している顔。碧は大きくため息を吐いた。 「酷いこと言ってる自覚、ある?色々、考えるくらいがちょうどいいのに」 「や、うん、そうなんだけど」  彼の中の旅人が…なんて比喩はあまりに陳腐だけど。旅もまたライフワークの一部である人にとって、出発前の整理癖は、習性みたいなものなのかもしれない。撮影で長期間家を空ける時、碧だって、部屋中の電気を点けっ放しで行ったりはしないのだし。 「それで?すっきりした?」  肘を使って少し進み、永久の太腿に顎を乗せる。大きな手が髪を掴み、碧の頭をくしゃくしゃにかき回した。 「するわけない。きみには適わないよ」

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