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きみ行かば6
真夏日が終わり、熱帯夜が訪れる。八月初めの、蒸し暑い夜だ。
P.M.22:00、西の都。
個人的には一週間のロケが終わった日、世間的には金曜日、さらには夏休みでもある。夜の街はごった返していた。
「意外なんだけど。碧、知り合いだったんだ」
「たまたま、ね」
「たまたま、ライブとかで?」
「や。知り合いと、仲良くて、その繋がり」
「へえ。知り合い、誰?」
「奥寺さんって、写真家」
数人から上がった相槌は、彼らがその名前を認知していないことを、少なくとも苗字を聞いただけで具体的な人物を想像できないことを、証明するようなものだった。一分後には、このうち何人が珍しくはない苗字を憶えているだろうか。去年出たアルバムのジャケットを撮った人だと、敢えて説明はせず、碧は口をつぐんだ。
二ヶ月に一度、第一金曜日にこの街でレギュラーパーティーが行われていることを知ったのは、たまたまその第一金曜日をこの街で過ごすことになったから。名刺をもらったはいいが、使う機会が、しかもこんなに早く訪れるとは思っていなかった。東京を離れた先の同じ街にいるという、ありきたりな偶然にあやかって、挨拶くらいはしておこうか。せいぜいその程度の気持ちだったのだが。細かなフォントで刻まれた十一桁の数字が本人直通だったというのは、少し意外な展開で。あっさりと招待客に昇格してしまい、今に至る。
フライング・ソーサーズのライブではなく、佐伯の単独DJによるパーティーだ。業界は狭く、密度も高いことを実感している。DJとしての佐伯はどうやら宮廷音楽家さながらで、何とかのパーティーで会ったよ、と一人が言うと、ぱらぱらと他にも手が挙がった。今回の自分は、立場上彼らを伴う格好で、実際のところ彼らに伴われ、クラブの階段を降りることになったのだ。
暗く、きらびやかな照明に彩られた空間。
空気を振るわせるベース音は圧倒的。振動は脚からも伝って、冷たいボトルを握る手を揺らす。ライムを押し込んだジーマを飲み下すたび、腹の中で波打つ。
「小田島君」
呼ばれたような気がして、目を上げる。視界に入る人間の数が多すぎてまごついていると、同伴者の一人が肩を叩いて教えてくれた。
「碧。佐伯さん」
「――あ。どうも」
碧の会釈に、軽く片手を挙げて返すのは、DJその人。今夜も、学者然とした風貌は変わらない。ただし、もう片方の手にはバドワイザーのボトルが見える。
「楽しんでくれてる?」
「ええ」
「円盤とは違って、バカ騒ぎって感じでしょ」
「はは、俺は好きですよ」
「のわりに、静かに飲んでるからさ。何?ジーマ?軽いの飲んでるなあ」
「好きなんです、これが」
「だから酔ってないのか」
「まあ」
「後できついの奢るよ。あ、それよりどう?せっかくだから回す?」
「無茶言わないでください」
音楽と喧騒に負けないために、怒鳴り合わなければならない。佐伯が同じテーブルに肘をつく距離まで近づけば、ようやく、多少トーンダウンできる。
「この間は、どうも」
「や、こちらこそ、大事な本見せてもらって」
電話でのやり取りを復唱して、どちらともなく、アルコールを一口。
「あれ以来、奥寺君とろくにメールもしてないんだけど。最近会った?」
「ああ、今、日本にいないんで」
「国外逃亡か。いつから?長いの?」
六月下旬に、ニューヨークへの直行便で出発。夏の間はたぶん、帰ってこない。急展開でカナダへ車を走らせることになったまでの経緯が、数日前のメールに綴られていたっけ。
「って、小田島君に訊いても仕方ないか」
沈黙に対する佐伯の誤解がなければ、思わず、知っていることを全部吐露していただろう。メールのせいかもしれないけど、ここ数日、よく考えているから。
「ふらふらしてるのかね」
「アシスタントって言ってましたよ」
「…ってことは。グザヴィエ・サジュマンの?」
「ええ」
佐伯は露骨に羨ましそうな口調で、露骨に「羨ましいなあ」とだけ呟いた。
彼のように才能ある人に、熱心な学生の顔を取り戻させてしまう、老写真家のことを思ってみる。碧が知っていることはごくわずかで、それも、好きな食べ物とか気まぐれな性格とか、私人としてのミスター・サジュマンについての情報がほとんどだ。
よみがえるのは。あれから徐々に強まった雨音と、流れては途切れる、傷ついたレコードみたいなハスキーヴォイス。それに、強烈にくすぶるバニラの匂いとか、硬いマットレスの感触とか、薄い胸の温かさとか。
――時にそのせいで心なく思えるほど、滑らかな弁舌が持ち味の永久が、慎重に言葉を選ぶのを隠さなかった。巨匠の足跡を後世に伝える役目を担うことになるだろうという、漠然とした予測と自覚。グザヴィエ・サジュマンが、高齢になって初めて弟子を取った理由のいくらかは、そこにあるのではないかという想像。
「誰にも言うなよ…結論ってわけじゃないんだ。見当外れな考えかもしれないしね」
「言わないよ」
「俺のほうが先に死ぬ可能性だって、ある。その場合、死因は心労だな」
親愛と尊敬が滲む、愛してると同義の冗談だった。
「――ない?」
「すいません、何て?」
ゲストDJに感謝しないといけない。ホールを制圧するほどの音が、碧に、聞き取れなかったふりを可能にさせたのだから。
「ここ、少し離れられない?何人か、会わせたいのがいるんだけど」
軽く顎を引いて、頷く。
手招きに従い、碧は磨き上げられた床を踏み出した。
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