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嬉しくないけど折角だから最近オーダーで作ったばかりだと言っていたシャツに鼻水をつけてやろう、と胸に顔を押し付けていたらテーブルに置いていた携帯が派手なマナー音で存在をアピールしてきた。金属製のテーブルの上で小刻みに動く長いマナー音は着信だ。
誰だよ、こんな時に。と少しイラつく気持ちのままろくに画面も見ずに応答のボタンを押した。
「はい、柴です」
酔った頭でも、会社や取引先の人間だったらまずいと考えきちんと対応できる俺、流石。とか言いながらいつもの癖で出ちゃうだけなんだけど。丘川の胸から顔を離すととろーんと透明な鼻水が伸びた。
「うおい、お前っ、汚ね!鼻水ついてんじゃなッムグ」
騒ぐ丘川の口を手で塞ぎ、電話越しの相手を伺うが何も聞こえない。もしもし?と尋ねるとやっと向こうから声が聞こえてきた。
『京太。俺だよ』
低く艶のある声にビクッと手が震え、思わず携帯を落としそうになった。
――着信の相手は静史だったのか。
「お、おう、静史。どうした?」
『どうしたって、帰ってくるの遅いから。残業か?』
そういえば静史に飲んで帰ること言ってなかったな。忘れてた。
電話相手が静史だと分かれば丘川はもう自由にさせよう。手を離して、丘川に触れていた手の平をグラスの横のお手拭きで拭く。
「おいっ、俺の皮脂がそんなに汚いか!俺はよっぽどお前のこの鼻水の方が汚いと思うね!?つか、このシャツこの前作ったばっかて言ったでしょぉ」
自由になった途端ギャンギャンと喚き出す丘川に眉を潜め背を向ける。
「悪い、今飲んでるんだ。だから、今日は帰るの遅くなるから」
『…誰と飲んでる?』
「丘川だよ。同期の」
「柴くぅん、放置しないでえええ鼻水許したげるから相手して!今日の丘川ちゃんは寂しいと死んじゃうウサギさんよ?てか誰と話してるのおお」
「はいはい、分かった分かった。ちょっと待ってろ。ハウス!」
「ウサギさんだって言ったじゃない!ハウスは犬だろ」
背後から抱き付いてきた暑苦しい丘川を好きにさせたまま、電話に意識を戻す。
「そういうわけだから、今日は先寝てろよ」
『……分かった。帰りちゃんとタクシーで帰って来いよ。危ないから』
「あいあい」
いつもと変わらない会話。適当に相槌を打って通話終了のボタンを押した。
平常心、平常心と唱えてはいるけれど、静史の声を聞くだけで胸が潰れてしまいそうになって、怒りと嫉妬と悲しみで、心臓からダラダラ血でも流れてんじゃないのかと錯覚する。
静史はいつもそうだ。
俺が誰かと飲んでたって口を出してこない。もちろんヤキモチのヤの字もない。営業という仕事柄、誰かと飲むことが多い俺は静史のそういうところが理解があって好きだった。
だけど、冷静に考えてるみるとどうだろう。
静史に愛されたオンナの写真が脳裏に浮かぶ。
――何も言ってこないのは、それだけ俺に興味がないってことか。
それなら浮気されても仕方ないってか?
俺が遅いと分かって、今頃静史はあのオンナに連絡を取っているのかも。
1人が心底嫌いだという静史ならあり得る。そんでいやらしい写真を送り合って次回までに気持ちを高めていくんだろう?
「ムカつく…」
「奇遇だねえ、俺も超ムカつく~!なあ、柴。新しい出会い探さねえ?ちょうどこの前取引先で気の合った女の子からコンパしよって言われてんのよ!」
声に出てしまっていたようで、俺の呟きに未だ背中に張り付いたままだった丘川が声を上げた。てか、いつまでくっついてんだ、こいつ。いい加減暑い。
丘川の身体を引き剥がしながら、久々に聞いた単語に首を傾げた。
「コンパ?」
「そうそう!可愛い子居ますぅって言ってたぜ、ホントかどうかは知らんがな」
「…お前、取引先の女に手ぇ出すのはやめとけって」
「手は出してない!向こうもコンパ目当てで乗っかって来たみたいなとこあるから大丈夫です~!来るのはその子の友達らしいし」
「へえ」
コンパねえ。
静史と付き合う前は結構行ってたけど、付き合い出してからは一度も行ってないな。何度か誘われはしたが一応恋人がいるわけだし俺自身がそんなことをされたら嫌だったから、きっと静史も嫌だろうなと思って行かなかった。
しかし考えてみると静史自身に何かを言われたことはない。俺が勝手に想像して控えてただけだ。
俺って実はあんまり愛されてなかった…?
グラスの中に残っていた、喉が焼けるような高濃度アルコールの酒を一気に飲み干して俺は丘川の肩をガシッと掴んだ。
「コンパ行く。可愛い女用意してくれ。ヤりまくろ」
「いや、コンパだからね?乱パじゃないからね?柴くん大丈夫ですかぁ、品性を疑うような発言はやめてくださーい。つかそろそろ帰るべ」
「はあ?まだ夜はこれからだろ。付き合え、丘川」
「マジすか、やべーな。俺ちょっと酔い冷めてきたんだけど」
「かー!これだから丘川は!ショット頼めショットショット」
「マスター!ショット1つ!」
「いや、2つだ!」
「嘘でしょ、やめてえええ!?」
丘川は飲むのも早いし酔うのも早いし冷めるのも早い。いつもはこれに振り回されるのだが、今日は振り回されてなんかやらない。
なぜなら俺はまだ帰りたくないからだ。
「丘川…俺、今日は帰りたくないの…」
「おえ。やめて下さい柴くん。俺にそっちの気はないんデス」
「金ならある!」
「キャー!柴くぅんスキスキ!今度ロ◯ックスの腕時計買ってぇー」
「それは自分で買え」
「そこだけ素面になるんですね」
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