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第56話

【朝陽 END】 額にキスをすれば、顎にお返しが返ってくる。こめかみにすれば、左頬に…と、子犬のようにじゃれ合う。 人工の光のない浜辺でひとしきり互いの存在を確認し合った後、身体を離してこちらを見詰める見慣れた黒い瞳に笑いかけた。 「恵果さん、そろそろ戻りましょうか?」 顔に掛かる、海風で少し重くなった髪を撫でてから、手を引いてさっきのテラスに向かって行くと、不思議そうに恵果さんが聞いてきた。 「車では無いのですか?」 何と言えば気づかれないだろうか?少し迷って、陳腐な答えを口にする。 「忘れ物をしてしまいました。すぐに済むので、少し寄ってもいいですか?」 なんだか腑に落ちない表情をしながらも、何も訊かずについて来てくれた。 歩道に続く階段に腰掛けた恵果さんの前に膝まづいて足裏の砂を払おうとしたら、焦って止められた。こんな事で恥ずかしがるところが、何をしても、いつまでたってもこの人が美しい理由なんだろう。 先程のテーブルに戻り、椅子を引いて促す。流石にもう気が付いているかと思いつつ、背後から耳元に囁いた。 「少しの間目を…閉じてもらえますか?」 見えないけれどきっと律儀に目を閉じている、そう言う人だ。用意しておいたものをテーブルに置いて、蝋燭に火をつけた。 隣の椅子に腰かけると、その気配にこちらに顔を向けた恵果さんの手に、自分の手を重ねて言った。 「どうぞ、目を開けてください」 蝋燭の揺れる光を反射する瞳が少しずつ焦点を結び戸惑った声が漏れた。 「たん、じょうび...」 「おめでとうございます、本当に忘れていたんですね」 思わず笑うと、恥ずかしそうに微笑み返してくれた。 恵果さんの誕生日を二人きりで祝うなんて、向こうにいた5年間想像したこともなかった。 暫く何も言わずに見つめ合っていると、瞳が強く訴えかけてきた。 必死な様子で、何かを、言葉以上の何かを伝えようとする声に気持ちが絡め取られる。 「ありがとうございます、朝陽さん...私は、もう前の人とはちゃんと決着を付けてきました、だから...だからっ」 その後開かれた口から告げられたのは、そうあればと願いながら、ずっと貰えなかった言葉だった。 「私は...朝陽さんが好きです」 身体が震え出しそうになった。月並みだが、目の前の恵果さんが愛しくて、幸せで、ずっとこのままでいたい、と。 気付くと重ねていた手は恵果さんの両手に包まれていた。 「俺は、いつでも恵果さんの事だけを思っています。愛しています」 身体を屈めて、手の甲に、そして薬指の付け根にキスをした。その意味を気付いてくれるだろうか? 表立って結ばれることは無理でも、俺の気持ちが変わることはない。 視線を上げると恵果さんの目から涙がこぼれ落ちていた。それは蝋燭の光しかないこの場所でただただ美しかった。 椅子を近づけて肩を抱き寄せると、甘えるように頭が胸元に凭れかかった。 「いっぱい泣いて、また笑ってください」 そう言うと、すっかり安心したように力が抜け礼を言われた。夜の海に向かって、風が生い茂った夏草を撫でてゆく。乱れた髪を押えながら、恵果さんは俺の手を取って薬指の付け根に甘く歯を立てて痕を残す。 「私の愛は重いですよ」 試すように笑いかけるこの人の全てを受け止めるために帰ってきたこの地で、これから先も二人で歩いて行けるように、と静かに願った。 【夏草の頃 完】

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