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第32話
【後日談】
ーー side 柊 碧生 ーー
カタカタカタカターー
来客や電話対応の少ない経理課は基本シンとしていて、パソコンを叩く音だけが響いている。
こっそりと横を伺うと、パソコンを叩く伊藤先輩の横顔があって・・・
細く長い指、そして真剣な横顔がとても綺麗だ。
気がつけば、俺が経理課に配属されてもう5ヶ月が過ぎようとしていた。
別部署での研修期間は6ヶ月、経理課にいられるのは残り1ヶ月か・・・
こんな風に隣で伊藤先輩を感じられるのも、後少したど思うとすごく寂しくて。
営業希望で入ったけれど、最近では伊藤先輩の横を離れたくなくて、このままここに残りたいとさえ思ってしまっていた。
ーーー 〜♪ お昼のニュースです ーーーー
昼休憩になると社内放送される全国ニュースを合図に伊藤先輩が立ち上がった。
その手には弁当箱が握られていて・・・
カタン、
「柊君、ご飯食べに行こうか。」
そう言って俺に微笑みかける伊藤先輩。
付き合い出してから数日、『俺からの愛も覚悟しといてね。』そう宣言していた通り、俺は伊藤先輩からの愛とやらを強く感じる日々を送っていた。
例えば・・・そう、先輩が手に持っている弁当は、俺への手作り弁当だ!
佐々先輩は外回りが多くて、滅多に一緒に食べられないってブツブツ言ってたけれど、今まで二人で過ごす時間が長かった分そこは我慢して欲しい。
資料室の大机に座って、ニコニコと弁当を広げる伊藤先輩を見つめて幸せを噛みしめる。
昼休憩は俺と伊藤先輩の親睦を深める貴重な時間なんだ。
先輩と付き合い始める前から、ずっとお願いしたかった事があるんだけど、この雰囲気で思い切って言ってみようかな・・・。
蛍斗さん、蛍斗先輩…
ずっと心で呼びかけていた名前。
苗字じゃなくて、名前で呼びたいし俺も名前で呼ばれたい…
「柊君…どうかしたの?眉間にシワ、寄ってるよ…ふふ」
横に座った先輩が、俺の眉間をツンと人差し指でつつく。
ニコリと笑うその笑顔が可愛くて、思わず肩を引き寄せて抱きしめた。
「…俺、お願いがあるんです…」
「わ…!ビックリした。なに?」
俺の首筋に顔を埋めた先輩が甘く囁く。
フワリと香る、先輩の甘い香りにクラクラしつつ、続きを話した。
「俺達…付き合ってますよね?」
「うん…あは。改めて言われると、照れるね。恋人とか、始めてだから…」
そう言うと、俺の首筋に額をスリっと摺り寄せる伊藤先輩。
先輩…どこまで可愛いんですか!!
興奮してそのままキスしたくなったけど、してしまったらそれだけで終われそうになくて…先輩の頬を両手で挟んで持ち上げて、至近距離で見つめて続きを話した。
「あの、お願いがあるんですけど・・・」
「なに?」
「名前で…呼びたいし、呼ばれたいんですけど。ダメ、ですか?」
一瞬大きく開いたアーモンド型の綺麗な瞳は、すぐににふにゃりと垂れ下がって・・・
「もちろん…いいよ。碧生…。」
「蛍斗さん・・っ・・」
今までこんな事思ったことなんて無くて…
・
・
・
「ねぇ、碧生って呼ぶから、私も名前で呼んでよ!萌香って、ね?」
「あー…うん。分かった。萌香、ね。」
・
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・
昔の記憶が頭を過る。
今まで何度同じようなやり取りをしたんだろう…
どう呼んでも呼ばれても、そんな事どうでもいいって思ってた。
人を好きになって始めて気がつく、他人の気持ち。
さすがの俺も、今までの自分の態度にちょっと罪悪感を感じる、な・・・。
「碧生、また難しい顔してる。」
「あの、俺・・・今まで人にどう呼ばれたいとか考えた事なくて・・・」
「・・・?」
「蛍斗さんに出会って・・始めて人に自分の名前を呼んで欲しいと思いました・・・」
「・・碧生・・・可愛い。」
俺の言葉に、蛍斗さんがゆっくりと立ち上がって俺の頭を優しく抱え込む。
蛍斗さんの胸に抱かれて、頬で頭をぐりぐりされて・・・
その甘い香りに包まれるとひどく安心した。
「そんなに格好良いのに・・何でいつもそんな可愛いの。
俺なんかにそんな事言ってくれて・・・すごく、嬉しいよ。」
「蛍斗さんは特別です。俺、蛍斗さんといるとおかしくなるんですよ・・
でも、こっちの俺が、本当なのかな・・・すごく楽です。」
素直な気持ちを吐き出して、蛍斗さんの腰に腕を回して胸に額を擦り付けた。
三人で過ごすのも楽しいけれど、好きな人を独り占めできる時間はやっぱり貴重だ。
「ふふ・・・本当、かわいい・・」
トクン、トクン・・・
ゆっくりと頭を撫でられて、蛍斗先輩の優しい心音に包まれて目を閉じる・・・
ああ・・・なんて幸せなんだ・・・・
ガチャーーー
「蛍斗、柊いるか〜?」
俺を現実へと引き戻した声の主は佐々先輩で。
タイミング悪すぎ!なんて一瞬思ったけれど、二人でこんな事をしていて何か言われるんじゃないかって、とっさに離れようと身を引こうとしたら、それ以上の力で俺の頭を抱きかかえた腕に力が込められた。
え・・・佐々先輩に、見られてもいいのか・・・?
正直、三人で付き合っていても心のどこかでは佐々先輩には負けているという気持ちがあって。
蛍斗さんの大胆な行動に少し焦る反面、すごく嬉しかった。
「なんだ、柊〜また蛍斗に甘えてんのかよ?」
蛍斗さんの胸に顔を埋めたまま、視線だけを佐々先輩に送ると、意外にもひどく優しい顔をしていて・・・佐々先輩はゆっくりと俺たちに近づいて来ると、俺の頭をワシワシと撫でてくれた。
「碧生が可愛くて、離したくなくなっちゃった。ふふ」
その言葉がすごく嬉しくて。
大人しく蛍斗さんに身を任せる。
「ん!?蛍斗!お前柊の事名前で呼ぶようになったのかよ!俺だって名前でよばれてーんだけど?」
「あは、ササは子供の頃からずっとだからな・・・すぐには変えられないけど、努力します!」
「まーな、なげーからなあ・・・・じゃ、碧生、お前も俺の事名前で呼べよ。」
え、俺も名前で呼んでいいのか・・・?
佐々先輩がそういうと、ぎゅっと抱きしめられていた腕から力が抜けて。
蛍斗さんと離れて、二人してササ先輩の方へ体を向けると、佐々先輩がニカッと笑って両手を広げて俺達を抱きしめてきた。
ゆっくり離れた俺達は、佐々先輩の大きな腕によって再び引き寄せられる。
佐々先輩の右腕には頭を佐々先輩の腰に引き寄せられた俺、左には腰を抱かれた蛍斗さん・・・
蛍斗さんをじっと見つめて、唇に軽いキスを落とした佐々先輩は、また俺の頭をくしゃりとかき混ぜた。
「さ、飯、食おうぜ!お前らに会いたくて必死に帰ってきたんだからな!」
そう言って笑う佐々先輩を見ていると、なんとも言えない暖かいものが胸に広がる。
ああ、俺・・・この二人と出会えてよかった。
心から、そう思ったのだった。
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