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第89話 Let it be

 日本に悪印象なんてなかった。美しい伝統と、独創的なカルチャーの混在した国。タケシ・キタノの映画は最高だし、ベビーメタルの音楽はキュートでクールだ。  だが、1年前から、俺は日本て国を世界で一番恨むようになった。  何故ってルームメイトのビルが極東勤務になったからだ。いや、ボスからそう言い渡された時には、もう彼は単なるルームメイトじゃなくなっていた。7か月もかけて口説き落として、やっとというタイミングだったんだ。  ビルはストレートで、長年の友人だった。お互いガールフレンドもいた時もある。ビルに至っては結婚していた時期だってあった。  そんな彼を落とすのは並大抵の苦労じゃなかった。トランプが大統領になるぐらいにありえないことだと諦めかけたこともある。ところが、なんてこった、トランプは大統領になったじゃないか! 俺はもちろんアンチ-トランプだけれど、この件に関してだけは彼に感謝している。俺に「この世にありえないことなんかない」って教えてくれたんだからね。  実際やったことは、大したことじゃない。なんせ一緒に暮らしていたわけだから、部屋に連れ込むのは何のサプライズにもならない。そこで、逆に雰囲気の良い店に連れて行ってやったんだ。気まぐれに買ったロトで1000ドルばかり当たったって嘘を言ってね。もちろんビルだって本気にしたわけじゃないだろうが、喜んでその話に乗ってきた。  高級なワインととびきり上等のフレンチに舌鼓を打ち、楽しい時間を過ごした。店を出てからも良い気分は続いていて、自然な成り行きで高層階のバーに移動して、夜景を見た。もちろん俺のほうは計算通りの成り行きだ。そして、彼の別れたワイフが、新しい恋をしていることを教えてやった。ビルの奴ときたら、それを聞いて悔しがりも淋しがりもしなかった。笑って「幸せになってくれたのなら良かった。」なんて言いやがる。畜生、これだから俺は奴にかなわない。それで俺は言った。「だから今度はおまえが幸せになる番じゃないのか? その方法を俺は知ってるよ。」って。  ビルは顎に手を当ててしばらく考えた。それから「さっぱり思いつかない。最近は良いことも悪いこともありはしない。毎日同じことの繰り返しだ。そうだな、ちょっとでも幸せを感じたことと言ったら、さっきのおまえとのディナーぐらいだ。」と言った。 「ちょっとだけ?」 「ああ、ごめん、とても楽しかった。」 「そう、そうだ。俺たちはさっき、とても楽しくて幸せな時間を過ごしたな?」 「そうだとも。それに、ディナーだけじゃない。今だってとても楽しくて幸せだ。」 「つまりそれが答えだ。」  俺は戸惑っているビルの手を取って、その甲にキスをした。  そこからは言葉なんか要らなかった。俺たちはいつもの、でも、昨日までとは違う意味を持つようになった"新しい"俺たちの家に、一緒に帰った。  ところが、その数日後だ。ビルは日本への出向を命じられた。1週間? それとも半月? 1ヶ月なんて言われたら耐えられない。俺がそう言うと、ビルは肩をすくめて「最低で1年間だそうだ。」と言った。そういう彼の目に涙が溜まっていたのが見えたから、なんとか倒れずに済んだ。ビルも俺と気持ちでいるってことが分かったから。  俺は待った。待ったんだよ、1年間も!  5年間も友達で、7か月もかけて恋人にしたというのに、甘い夢はたったの3日しかなかった。4日目に彼は荷造りを始めて、1週間後には日本に旅立った。そこからの1年間。悪夢のようだったよ。スカイプで毎日話したけれど、お互い時差で寝ボケた顔しか見ることはできなかった。まあ、その意味では先にルームシェアしていたことは正解だね。少なくとも寝起きの顔を見て幻滅することはなかった。  それでも休暇に入れば多少は会えると思っていたのに、予定していた休暇は何度も先延ばしになった。ビルのほうの都合でね。それもこれもクレイジーな日本の取引先のせいだ。痺れを切らした俺は、ビルの都合に合わせるのは諦めて、こちらから押しかける計画を立てた。そうしたら、なんてことだろう、よりによって同じ日程でビルは中国に出張になって、計画は頓挫した。もう、呪われているとしか思えない。  そうして、「少なくとも1年間」の期限が近づいてきた10月に入っても、一向にビル帰国の報はなかった。まさか、延長になるのか?と不安が募ってきたある日、ビルがスカイプを始めるなり、叫んだ。 「喜べ! 帰れるぞ!」  俺は思わず画面のビルにキスしたよ。それからビルはこう続けた。 「日本はすごく良いところだよ。きれいな景色に、美味しい料理。せっかく1年もいたのに、おまえとこの国を楽しめないなんて、人生を損してるとしか思えない。」 「俺はそうは思わない。おまえをかっさらって、休暇も与えない国だ。」 「そう言うなよ、ハニー。そこで僕は考えたんだ。」ビルは何やら取り出した。ビルがひらひらしているそれを目を凝らして見ると、航空券のようだった。「日本に来てくれ。そして、一緒にこの国を旅しよう。それから、一緒に帰ろう。」 「ビ、ビル、それって……?」 「そうさ、僕たちのハネムーンだよ。どう?」  俺はもう、話が続けられなかった。泣いてしまって、どうしようもなかったんだ。  今、俺はキョウトにいる。荘厳で美しい寺や神社。花に建物。キモノを着たゲイシャ。土産物屋で売られている小さな鈴に至るまで、目に入るものすべてが美しい。  夜は鉄板の上でいろいろなものを焼くという店に入った。といっても、バーベキューとはずいぶん様子が違う。特にこの、オコノミヤキというパンケーキ状の食べ物は今まで見たことのない料理だ。シーフードや野菜や色々なものが入っていて、独特のソースをかけて食べるらしい。ビルはもうすっかり日本の食べ物に慣れていて、上手に箸を使うが、俺はそこまで上手くないので、フォークとナイフを使った。食べてみると、未知の味だったが、これがとんでもなく美味い。 「美味い。」と言うと、ビルはにこにこと満足そうに笑った。 「スシもテンプラも美味しいけれど、俺はこのお好み焼きが一番気に入ったんだ。」とビルは言った。「お好み焼きという名前の意味を知ってるかい?」 「知るわけないだろう。」 「Eat as you like.」 「へえ……。」 「好きなように食べていいんだ。」 「これを?」 「これも、僕もだ。」 「そんな風に言われたら、食べ過ぎてしまいそうだ。これも、おまえも。」 「お好きなように。」 「明日には発たなきゃならないってのに、動けなくなったらどうする? このまま日本にいるかい?」 「なるようになるさ。今までと同じく。」 「それもそうだな。なるようになる。」  俺はビルと見つめ合い、微笑み合った。  ところで、さっきからじっとこちらを見ている、あの美しい日本女性は何だろう。まさかビルに気があるのではないだろうな。  まあ、いいか。ビルは俺しか目に入っていないはずだから。いくら彼女が魅力的でも、ライバルになんかなりようがないさ。美しいレディ、この最高にカッコイイ俺の恋人に振られても気に病むなよ? なんたって、恋愛なんて、いつでも Let it be だからね。 ----------------------------------- 京都に出張した友人がお好み焼き屋さんに入ったところ、アラサーの外国人男性二人がボディタッチ多めにキャッキャウフフと食事をしていた、という話に着想を得て書いた話。 どんな会話してた?と聞いたら、「Let it beって言ってたのだけ聞きとれた」そうなので、それを入れてみました。

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