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第90話 カクテル *「名残の夏の」番外編

居心地がいいものだから、週末はつい貴之のマンションで部屋飲みをして、なし崩しで泊まるパターンが多い。たまには外デートしないかと言われて、貴之お勧めのバーに来た今夜。 その手のバーじゃないと聞いていたが、妙に艶めかしいバーテンダーは、たぶん1度や2度は貴之と関係があったんじゃないかという気がして、彼が貴之に微笑みかけるたびに嫉妬してしまう。 「いつもの?」「うん」そんなツーカーの会話が腹立たしい。 「薫は何にする?」と聞かれて答えに窮する。こういうところで生ビールなんていうのは芸がない。かといって俺は洒落たカクテルなんてほとんど飲まないし、知らない。貴之はそんな俺の緊張に気付いたのか「ここね、マティーニが美味しいよ」などと言う。「じゃあ、それで」と頷いた。 「お好みのジンは?」とバーテンダーに聞かれてまたも戸惑う。ビールの銘柄ぐらいしか「お好み」なんてない。それすらも、このバーテンダー、やっぱり貴之に気があって、貴之の前で俺に恥をかかせようとしているのではないか……と疑心暗鬼になる。 「うんとドライで」と俺の代わりに貴之が言う。 「瓶のラベルでも眺めますか」 そんな会話で笑う2人。俺にはちんぷんかんぷんだ。その後も俺の知らない話をしながら、バーテンダーは颯爽とカクテルを作る。 「あ、さっきのは、チャーチルがいかにドライマティーニが好きだったかっていうエピソードがあって」解説を始める貴之の優しさが却って癪にさわり、俺は「トイレ」と言って立ち上がった。ちょうどマティーニのグラスをカウンター越しに差し出された瞬間で、俺の肘がグラスに触れて、こぼしてしまった。 どこまでも格好悪い自分に嫌気がさす。「ごめん、濡れてない?」貴之の高級スーツに手をのばした。 「ボンドなら、大丈夫、still dryと言うところなんだけどね」貴之も立ち上がった。「ごめん、やっぱりまた出直すよ。オーダー分はツケておいて」バーテンダーにそう声をかけると、貴之は俺の肩を抱いて、押し出すように慌ただしく店を出た。せっかくの外デートを、俺のつまらない嫉妬のせいで台無しにしてしまったことに落ち込む俺。 肩にある貴之の手の力が強くなる。更には俺の耳元に触れそうなほど顔を近づけて、貴之は囁いた。 「濡れてないかって? あんな露骨に嫉妬されたら、もうぐっしょりだよ。責任取れよ?」 --------------------------------- #うちの子版深夜の60分一本勝負 #本編「名残の夏の」 チャーチルは超辛口のマティーニを好んだといいます。ベルモットを入れずに、そのボトルを目の前においてジンを飲んでいた、という逸話があるほど。 ボンドのほうは、「007」の中のセリフです。 ジェームス・ボンドもドライマティーニが好きで、彼がそれを飲んでいた時に、アクシデントで(アクシデントを装って)濡れた水着のまま彼に抱きつく格好になってしまった美女が、「Are you wet?(濡れましたか?)」と聞くと、ボンドは「My martini is still dry!(私のマティーニはまだ"ドライ"だよ)」と答えます。「辛口」と「乾いている」、双方の「ドライ」をかけて、美女にスマートに「大丈夫」と伝えているわけです。

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