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第98話 Blood and Roses *「Blood of the Beast」番外編

 そのバーは地下にあり、階段の上から覗き込んだところで木の扉があるだけで、店内は見えなかった。OPENの札が出てはいても、通りすがりにふらりと立ち寄るには勇気のいる店だった。しかもその時の大夢(ひろむ)は20歳になったばかりで、学生向けのカジュアルな居酒屋すら、ほとんど行ったことがなかった。 ――その俺が何故あの木の扉を開けようと思ったのか。  今になって思う。大夢はその扉の向こうから漂う、独特の匂いに惹かれたのだ。強いて言うなら、「鉄」の匂い。どこか懐かしいのは、それが湿った鉄棒の匂いに似ていて、小学生の頃の、雨上がりの校庭を思い出させるせいだ。更にそれは血の匂いにも通じていた。 「いらっしゃい。」と顔をこちらに向けたバーテンダー。店員は彼しかいなかった。客もまばらだった。大夢はその匂いが誰から発散されているのかを見極めるために、ゆっくりとカウンターの一番奥の席を目指した。  客じゃない。大夢の他にはぽつりぽつりと離れて座る客が2人。その背後を通っても、何も感じなかった。だとしたら残るは1人しかいない。バーテンダーがオーダーをとるために近付いてくる。いよいよ匂いが濃くなって確信した。 ――彼だ。  その確信には2つの意味があった。ひとつは、彼が、古い同級生の裕太(ゆうた)だということ。鉄の匂いから校庭の鉄棒を連想したのは、彼が小学校時代の同級生だということにも関連しているかもしれなかった。そして、ふたつめの確信は、彼が吸血鬼だということ。血の匂いに入り混じる、人間とは違う、"同類"の匂い――。  いや、追加でもうひとつ、もっと重要な意味も追加してよかったかもしれない、と今の大夢は思う。 ――彼こそが、俺の、運命の相手だということ。  あの再会の日から、もう数年が経過していた。 「何考えてる?」裕太は大夢の髪をいじっていた。彼は大夢の髪だの、月満ちる夜の尻尾だのに触れるのが好きだった。ただし、獣の耳については、大夢が「触ると余計な雑音が響くからやめてくれ」と頼んでからは触れて来ない。 「再会した時のこと。」大夢は答えた。 「店で?」 「うん。」 「あれってさ、偶然だったの? 本当に俺がいるって、知らなかったの?」 「ああ。……いや、でも違うのかな。」 「ん?」裕太は優しい笑顔のまま、意味を問い直す。 「知らなかったけど、でも匂いがした。」大夢は裕太の胸に思いきり顔を押しつけた。「この匂い。」 「血生臭いか?」裕太は自虐的に言う。「普通の奴は気にならないだろうが、おまえは嗅ぎ分けられるんだろう? 悪いな。」  狼男のクオーターである大夢は、人の何倍も鋭い嗅覚を持っている。大夢自身はそれが当然として生きてきたから、「普通」がどれほどなのかは知る由もないけれど。 「うん。でもそれだけじゃない。甘い香りもする。薔薇のような。」それは出会いの日には感じられないものだった。体を重ねるうちに、そう感じるようになった。 「ああ、それは。」裕太は少しはにかんだ。「大夢が好きってことだよ。」 「え?」 「ええと、つまり。」裕太は大夢の首筋を強く吸った。だが、歯は立てない。「こうして、血を吸う時にね、本当は動脈に向けて歯を立てるけど……その歯の先から一種の麻薬物質が出るらしい。相手が痛みや恐怖を感じなくて済むように。でも、誰が相手でもそうなるわけではなくて。」それから、至近距離で大夢を見つめた。「相手に好意を持っている時だけ。相手が愛しくて、できるだけ怖がらせないように、傷つけないようにって、そんな気持ちが溢れる時。催淫効果もあって……俺たちにとっては、吸血とセックスが同じ意味ってのは、そういうこともあるからで……とにかく、その麻薬物質が薔薇の香りだって聞いたことがある。」 「そう、なんだ。」大夢は愛の告白を聞かされた気がして、気恥ずかしい。「でも、噛まれたことないのに、その香りがするよ。」と言う。 「うん、でも、そういう物質が作られてるには違いないから……匂いだけ漏れ出てる、ってことじゃないかな。」  愛しい相手にだけ分泌される麻薬。その香りがするということは、心から愛している証拠。そんな甘ったるい愛の言葉に、大夢は逆に身構えてしまう。 「今までにもあった? そういうこと。」 「え? だから、もう、今は人工血液があるから、吸血行動はしないって。」 「そうじゃなくて。」大夢は裕太から視線を外した。「その、その香りを出すほど、愛しい、って思った人は……たとえば、愛斗(まなと)とか。」  裕太の顔がほころび、もう既に腕の中にいる大夢の体を、更にぎゅっと抱きしめた。「ないよ。今、大夢に言われて初めて、薔薇の香りの話、思い出したんだ。ずっと昔に父親から聞いただけで、単なる伝説だと思ってたぐらいだから。」 「……なんか、噛まれてみたくなってきた。」 「え?」 「だって、気持ちよくなるんだろ? 催淫効果って、そういう意味だろ?」  裕太は驚いたように目を見開いた。初めて出会ったこどもの頃よりかなり痩せて、彫りの深さが目立つ顔立ちになった裕太。勤務先のバーでは常に淡い微笑みを浮かべているだけだが、大夢の前だけでは豊かな表情を見せるようになった。  裕太はにっこりと笑い、大夢の前髪をかきあげて、その額にキスをした。それから頬と、耳たぶにも。やがてさっき跡がつくほど吸った首筋に再び唇を寄せる。いつもより濃厚になる裕太の匂い。血の匂いも、薔薇の香りも。それが自分への想いの深さの証だと思えば、それだけで大夢の感度も上がる。ただのキスに自分でも驚くほどうっとりとした。  首筋に硬い物が当たった。唇でも舌でもない、初めての感触。普通より大きく、鋭い犬歯に間違いなかった。だが、裕太の動きはそこで止まる。「匂う?」  大夢は頷く。「さっきより濃くなった。」 「それでも、匂いだけじゃ足りない?」裕太は大夢の耳を舐める。それだけでも大夢は体を震わせて、充分に欲情していることを知らしめた。「やっぱり俺、大夢のことは傷つけたくないな。」 「傷なんかじゃ……。」噛まれてもいい。血を啜られてもいいのだ。裕太ともっと深く交われるなら、そうしてほしい。そんな想いは口にはできずに、大夢はすがる目で裕太を見る。 「大夢が人間なら、どうなるか分かってる。でも、怪物(モンスター)の異種間でそんなことしたら、どうなるか。……それに俺のほうが血が薄いから。」純血に近いほど長い寿命。狼男クオーターの大夢に比べ、自分は8分の1の血を引くだけの吸血鬼。だが、吸血鬼の吸血行為は、人間を遺伝子レベルで吸血鬼に作り変えるほどの影響力を持つ。自分の遺伝子が大夢に取り込まれたら、大夢に本来与えられた寿命を縮ませることになりはしないかと、裕太は危惧していたのだった。 「そんなの、構わない。」大夢は裕太にしがみついた。「俺一人残されて、裕太より長生きしたって意味ない。」もっと深く、もっと密に、ひとつになりたい。そのためなら遺伝子を書きかえられたって構わない。 「そんなこと言わないで。」裕太は大夢の背中を撫でる。満月はまだ遠く、すべすべとした肌だ。もっとも大夢の場合、満月の晩でも耳と尻尾以外はこのままなのだけれど。  取って付けたようなその耳と尻尾を、大夢は長いこと恥じていた。そんな半端な変身をするぐらいなら、いっそ全身狼のほうが良かったのではないかと思いつつ、美しい母が狼の体に変わり、四つ足をついて床に直に置かれた生肉を貪る姿を思い出せば、一概にそうとも言えなくなる。手足が人間のままだからこそ、肉しか受け付けなくなる晩でも、食卓につき、ナイフとフォークを操って「人らしく」食べることができている。それに。 ――裕太と唇を合わせることもできる。セックスすることもできる。  大夢は裕太の背に回した腕に力をこめた。「じゃあ、もう一回、して。」  裕太はゆっくりと体を起こし、大夢をうつぶせにさせると、そのうなじと背中を舐めた。それだけで大夢は「あんっ。」と甘く喘ぐ。うつぶせにしたのは大夢が後背位を好むからだ。半獣の姿を恥じるくせに、動物と同じ体位が一番好きだなんて皮肉なことにも思える裕太だけれど、それは大夢には言わなかった。言えば嫌がるようになって、この一番艶やかに美しい、そして"獣じみた"貪欲な大夢が楽しめなくなる。セックス中の大夢は普段の姿からは想像できないほど、本能の赴くままに淫らに喘ぎ、自らの手でそこを開き、裕太を誘う。そんな痴態は、終わってしまえば本人は覚えていないらしい。  大夢の初めての相手は裕太で、それから今に至るまで一途に裕太を愛している。だから大夢の甘い喘ぎも、滴る蜜の味も、のめりこめば絡みつく体の内側の熱も、知っているのは、世界でただ一人、裕太だけだ。決して飼い慣らされることのない一匹狼を組みしだくことの快感。その愛情を一身に浴びる優越感。生まれながらに、一族の中でも尊重されている純血種の愛斗のそばに侍ることを定められ、劣等感ばかりを植え付けられた裕太にとって、大夢こそが麻薬のような存在だった。  珍しく2人の休日が重なったのをいいことに、ずっとベッドで過ごして、もう何時間経ったのか。窓のない寝室にいると昼夜の別すら分からなくなる。そんな2人きりの、寝室という名の王国に重く湿った薔薇の香りが満ちていく中、裕太は大夢を幾度となく抱き続けた。 (完) ------------------------------------- この話は、「その恋の向こう側」読破御礼作品として書きました。 おかず様のリクエスト、「大夢と裕太の甘々エロエロ」にお応えしての、下記の2編の番外編(後日談)です。 「Blood of the Beast」 https://fujossy.jp/books/8150 「Bloody Beast」 https://fujossy.jp/books/8628/

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