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第101話 大つごもり

 2人で行く何度目かの初詣は、地元で最大の寺にした。それまでは混雑を避けて小さな神社だった。 「さすがにすごい人出。」と和樹が言った。 「だな。」と涼矢が頷く。  結局自分たちの順番が回ってくるまでに1時間近くも並んだ。特別な日にしか開かない戸が開いて、ご本尊が見えた。  帰り道には、境内の出店で甘酒を買って飲んだ。 「あんまり甘くないな、これ。」と和樹が言った。 「生姜が効いてるね。体は暖まりそう。」涼矢は両手で紙コップを持って、凍えた指先を温めた。 「お釈迦様って、花に座ってるんだな。」 「そうとは決まってないと思うけど、蓮華座って言うから、蓮華に座ってるパターンはあるんだろうな。」 「レンゲザ?」 「蓮の花の台座だよ。何、急に。」 「普段見えないから、しっかり見ておこうと思って見たら、気になってさ。レンゲって、ラーメン食べる時のレンゲもそのレンゲ?」 「知らんけど、そうなんじゃない? 花びらに見立ててるとか。」 「ラーメン食いたくなった。」 「元日からやってるラーメン屋なんかねえよ。」 「作ってよ。」  涼矢は苦笑する。「……佐江子さんがストックしてるインスタントの塩ラーメンしかないけど、それでいい?」 --------------------- 「大つごもりだね。」と朔弥が言った。寒暖差で白くなった窓ガラスを眺めながら。 「樋口一葉?」蓮はのんきにみかんの皮を剥いている。 「そう、読んだ?」 「読んでない。」蓮が照れくさそうに笑う。 「実は俺も。」朔弥も笑う。「でも、今のは一葉の話じゃなくて、大晦日だねって言ったの。」 「大つごもりってそういう意味なんだ。」 「ちょっとちょっと、きみ、国語教師でしょ。俺は理系だってのに。」 「朔弥さんから教わらないといけないこと、まだたくさんありそうだなあ。」 「じゃあ、俺の名前の由来は、想像つく?」 「えっ?」 「朔は一日(ついたち)の意味だよ。弥生三月の一日生まれだから、朔弥。」 「へえ。」 「蓮はどうして蓮になったのかな。」  蓮はふと押し黙る。 「お母さんの好きな花かな。」 「父が。――遺伝上の父親のほうね。」蓮がぽつりと言った。「理由は聞いたことないけど、僕の名前は父親が付けたって。」 「美しい花だよね。」と朔弥は言った。  泥の中からすっくと伸びて気高く咲く花。日が落ちれば閉じて、けれど朝になれば再び花開くその様は再生の象徴ともされた。その清冽な美しさを我が子に与えたいと願ったのであれば、少なくともその時は、蓮の父親も蓮を愛しく思っていたのだろう。 ――いや、そんな理由などなくても構わない。父親が彼を顧みなかったとしても哀れとは思わない。 ――蓮は昔も今も気高く咲き誇る、俺の、美しい花だ。 --------------------- 「えー、瞬、大晦日も仕事なの?」智哉が思い切り不満そうに言った。 「悪いな、他の奴はみんな田舎帰ったりで人手が足りないんだよ。」 「警備の仕事は辞めるって言ったじゃん。全然僕と都合合わないし。」 「もう少しな。4月には新しい奴入ってくると思うから、そしたら。」 「そんなこと言って、前は今年いっぱいで辞めるって。」 「……今の社長には、いろいろ世話になってんだよ。」 「これからは僕が世話するから! お金の心配はしないでいいから!」 「そういう問題じゃないの。義理ってもんがあるんだよ。」 「僕そういうのくだらないと思う。義理とかしがらみとか言ってる間におじいちゃんになっちゃうよ。瞬、やりたいことないの?」  智哉が最近、学生ながら起業の準備を始めているのは、瞬も知っている。右半身のリハビリも少しずつだが進んでいて、日常生活で困ることはほぼない。平らな道なら同じペースで並んで歩けるところにまで来た。そのパワーは、智哉の持つこんな前向きなメンタルから生まれるのだろう、と瞬は思った。 「やりたいことか……。俺はおまえが楽しいなら、それでいい。」 「そんなの重い。僕が頑張ってんのは僕のため。瞬は瞬のための人生を楽しまなくちゃだめだよ。」  瞬は顎に手をあてて考える。それでもやはり智哉の笑顔しか思いつかない。そして、現実の今の智哉は、出会った頃よりよほど活き活きとして、楽しそうだ。今がいい。今の生活が自分のやりたいことだ。 「俺は社長とか、おまえとか、おまえや俺の親とか、いろんな人に感謝して暮らしてる今が一番いい。これからもそうやって生きていきたい。」  かつては恨んでばかりいた。うまくいかないことはすべて他人のせいにしてきた。そのツケが自分ではなく智哉の身に回ってきたのだと感じ、今度は自分を責めた。そこから救ってくれたのもまた智哉だった。彼の前向きさは自分をも引き上げてくれる。 「智哉、この1年、ありがとう。俺はこのまんま変わらないと思うけど、また来年もよろしく。」 「もう!」智哉は仕方ないなあとばかりに苦笑する。「体だけは壊さないでよ。あと、仕事終わったら、今日こそ僕の家に来てよ? もう逃げられないからね。母さん、苦手なのに日本のおせち料理頑張って作って待ってるし、ダディも瞬と一杯やりたいって、秘蔵のワイン用意してるんだ。」 --------------------- 「知ってる歌手がいないなあ。」大槻巌57歳は呟いた。テレビでは紅白歌合戦をやっていた。それでもテレビを消さないでいるのは、物心ついて以来、初めて1人で迎えようとしている正月の淋しさを少しでも紛らわせるためだ。結婚するまで実家住まいだった。愛妻の優子が亡くなった時は息子がいた。だから、1人で過ごす年越しは経験がない。優子の遺影を持ってきて、テーブルに乗せ、向き合った。「仕方ないよなあ。お寺さんは稼ぎ時だものな。」優子に話しかけた。  息子の敦士と、そのパートナーの永は、永の実家である陸勝寺で今頃てんてこまいのはずだった。今遠くに響いている除夜の鐘が、まさにその陸勝寺のものだろう。  まだ敦士と永はそれぞれの実家で暮らしている。養子縁組といったこともしていない。敦士の会社で同性カップルに対しても社宅利用や家賃補助が適用される運びになりそうなので、それを待って同居するつもりだと聞いている。更にその先、いつか自分たちの市でもパートナーシップ条例が制定されたら、その認定証はもらおうと話し合っていると聞いた。  そうなったらずっと1人か。巌は溜息をつく。敦士のことは男1人で育ててきた。楽ではなかった。弁当ひとつまともに作れなかった。PTA活動もろくに参加できずに肩身が狭かった。父子家庭への支援は母子家庭よりずっと少ない。誰かに相談すれば再婚を勧められるだけだった。 「女房はきみだけだからなあ。」巌は優子に再び話しかけた。  その時だ。玄関から物音がした。このタイミングで来訪者がいるわけがない。帰省中の留守宅とでも勘違いした空き巣か。とっさに武器になるものに思いを巡らせた。剣道の心得ならある。玄関先の傘で対抗できるだろうか。 「父さん。」敦士の声だ。拍子抜けした気分で玄関に向かう。「ごめん、すぐ戻らなきゃならないんだけど、とりあえずこれ。」敦士は靴も脱がないまま、ステンレスの水筒と折詰を巌に渡した。「こっちは甘酒。あったかいから。あとこれは檀家さん用の折詰なんだけど、よかったらどうぞって永が。」  折詰が2つあることに気付いた巌が聞き返した。「ひとつは、おまえが帰ってから食べるのか?」 「あ。うん。でもそれは。」敦士は照れくさそうに言った。「母さんにって。今年は父さん1人にしちゃうから、せめてそれ、仏壇にあげて、ちょっとでも淋しくないようにって、それも永が。まあ、下げた後、俺が食べると思うけど。」  巌はにっこり笑う。「ありがたくいただくよ。永によろしく伝えてくれ。」 「うん。言っとく。……永ね、頭は丸めてないけど、今日は袈裟着てるんだ。超似合うから、後でいいから見に来てよ。初詣がてら。」恥ずかしそうにうつむいて早口でそう言うと、敦士はまた出て行った。  巌は優子の写真の前に折詰を置き、甘酒も2人分注ぐと、そのひとつを折詰の隣に置いた。「今年の正月も、家族で迎えられたな。」 --------------------- 平成最後の大晦日に寄せてのオムニバス。

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