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  ◇◆ 「……うーん。やっぱり優呉はそれを選ぶと思ったんだよね」  牡丹を連れ立って家に帰ると、兄貴は驚く様子もなくただそういって笑った。こうなることはわかっていたと。 「牡丹が十年待ったのも無駄じゃないってことだね」  クスクス笑いながら、地下室へと降りる階段の扉を開ける。普段は鍵もないのに開かないその扉をくぐり、地下へ続く階段をゆっくりと降りていく。細くて暗いその階段は、一人で通るので精いっぱいの広さしかない。 「足元、気を付けるんだよ優呉」 「うん」 かつんかつんと、兄貴が階段を降りる音が響いて、なんだか緊張してくる。俺の後ろから牡丹が降りてきているのも、気配で感じていた。いやな汗が噴き出てくるのを手を握り込み耐えながらゆっくりと階段を降りた。  兄貴の地下室は、俺が目覚めた時の最初の記憶だった場所。いくつもの機器に、電子音。それに歪んでよく見えない視界。はっきりと目にするのは今回が初めてだ。 「それにしても、ここを出て三日で帰ってくるのは驚いたな」 「いやまぁ、それは俺も同感だけど」  俺だって、こんなに早く記憶が戻ると思ってなかった。 「さて、ここだね」 階段を降りきり、もう一つの重厚な扉を兄貴が開く。その先に、一つのガラスケースがあった。  右頬に花のような赤いあざがある、死んだように白い顔。  額に生えた二本の角は。牡丹と同じ鈍色だ。血塗れの着物を見にまとったまま、眠っている。 「起きないのか?」 「起きないね。少なくとも、あと九十年は眠ったままだろう。この鬼はそういう呪いをかけられているんだよ。母親にね」 ねぇ、牡丹。と兄貴が笑いながら言うと、牡丹はそうだね、と困ったように肩をすくめた。 「起きたら、また誰かを襲うのか」 「それは、起きてみないとわからないかな。……私の血がうまく作用していれば、人を襲うことはないと思うよ」 「―――そうか」  死んだように白い顔。とてもきれいな黒い髪に、血塗れの着物。たぶん、あの血塗れの着物は俺の血なんだろう。そう思うと正直ぞっとした。あの痛みも、臓物を引きずり出される感覚も俺は知っている。あの近いづいてくる死に抗えない感覚は、二度と味わいたくないものだ。 「優呉」  無言で牡丹のコートの裾を握ると、牡丹が帰ろうか、と小さくつぶやいた。それに声もなく頷くと、牡丹が俺の手を引いて歩き出した。 背後で、兄貴が「ごめんね」と言った気がした。  階段を上り、リビングに出ると、俺は思わず深呼吸をした。地下の扉はリビングの一番奥、暖炉のすぐ横にあって、一見では扉には見えない。あの地下は、兄貴が自分で作ったのもだと前に聞いたことがある。いつも、勝手に入ってはいけないと言われていた。それはたぶん、温羅がそこで眠っていたからだろう。俺はなんだか気持ちが悪くて、すぐにソファに深く腰掛けて、目を閉じた。 「大丈夫かい?」 牡丹が隣に座り、俺の頭を撫でる。 「………俺は、牡丹がそばにいるから、大丈夫」 「そうか」 「でも、……」  でも、確かにあの夜に俺を襲った鬼だった。記憶にある、思い出した、あの、黒い髪が月明かりに照らされて、それに目を奪われて、牡丹の言葉に反応できなかった。 あの、一冊目の手帳の血は、俺の血。すべてが赤色に染まったあの夜の記憶を、牡丹はずっと抱えていたのだろうか。  俺が、牡丹を思い出すことがなくても、生きていればいいと。 「……牡丹、」 「ん?」 「そばに、いるから。今度は、ずっと、………ずっといるから。墓参りもしよう。花買って、……お参りして、できなかったこと、全部、この十年間にできなかったこと、全部、しよう」 「――――優呉」 「だって、………だって、俺は、俺が牡丹の言葉をちゃんと聞けてれば、こんな……」 「優呉、起きてしまったことは変えられないんだよ。お前は、悪くない。それにまた、会えたからそれでいいと思わないかな?」 ぎゅっと俺を抱きしめて、牡丹がくつくつと笑う。 「いいんだよ、いま、私はとても幸せだから」 「それは、俺だって、」 「なら今は、それでいいんだよ。優呉」 牡丹はそう言うと、帰ろうかと笑った。             徒花と、すみれ草  ―了―

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