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第1話
生温い水の中を浮遊しながら、水面の音を遠くで聞いているような気分だった。水中の住人には関係のない、外界の喧騒。もうどれくらい鳴っているのだろう、やがてそれが電話の音であること、そして自分が水中の生物などではないことに気付き始める。
睡眠から覚醒への不愉快なグラデーションに応じて、徐々に大きくなる電子音。
重い身体を起こし、ふらつきながら部屋を出る。
オレンジのランプを点滅させながらけたたましく鳴る、白い受話器に手を伸ばした。
「……まだできてません」
寝起きの声はひどく擦れている。
向こう側で、明るい失笑が弾けた。
「――残念ながらというべきか、今日は別件です」
「あれ」
「ていうか、第一声からそれで、僕からの電話じゃなかったらどうするんです」
「……ん、大丈夫」
ネットとFAXのために残してあるような固定電話だ。ナンバーディスプレイの契約もしていないが、そんなものを見なくても、セールスを除けば電話の主などほぼ二人に絞られる。一人は兄、もう一人が彼だ。
「何が大丈夫なんですかぁ」
もう一度、明るい失笑が弾ける。独特の人当たりの良い印象の笑顔が見えるようだった。
「あ、そうそう、それで、用件なんですけどね」
こちらの沈黙など気にも留めないテンションとテンポ。デビューからずっと面倒を看てくれた人物が編集長に昇格し、湧田(わきた)が二代目担当となってから二、三年経ったか。あしらい方にもずいぶん慣れたものだなと、あしらわれる側として感慨深くなる。
「ののめ先生、明日は大丈夫ですよね?」
「……明日って、なんだっけ」
「その反応は想定内です」
湧田の、やはり明るいため息を聞きながら、卓上カレンダーに手を伸ばす。が、鼻先まで近づけて目を凝らしてもぼやけて判然としない程度には近眼だ。元来た経路を戻り、手探りで眼鏡を探す。霧が晴れたように、と言うより、すりガラスが外れたように、と言ったほうが体感に近い。クリアになった視界、はっきり読み取れるマス目の配列を縦横になぞっても、特別な書き込みは見当たらない。
「何にも書いてないな」
「いやいや、電話口でしたけど、何度も念押したじゃないですか」
「湧田さんが言うならそうなんだろうけど、今月はこれといった予定はないっぽい」
「そんなはず――あ、ののめ先生、カレンダー何月ですか?」
「三月」
「残念、今月は四月です」
「またまた、ご冗談を」
「こっちの台詞ですよ。もう一週間ほど前から四月ですって、めくってみてください」
湧田に促され、つやのある少し厚手の紙を一枚めくる。第二木曜日に赤いボールペンで丸印があり、
「品川、18:00」
とだけ書き込んであった。
「思い出しました?」
「思い出したというほどではないけど。懇親会だったね、そういえば」
まだまだ先だと思っていた予定が、明日に迫っていたらしい。
曜日も曖昧な変わらぬ日々を送っている間に、月が変わり、いくらかの割合の人々は入学だったり就職だったりという人生における大きなイベントを済ませていたということか。ほんの少しの驚きはしかし欠伸とともに身体から抜けていき、目覚め方こそ気持ち良いものではなかったがそもそも寝起きはすこぶる悪い体質だし、それを差し引いても熟睡後の充足感があることに気付く。
いつ寝て、どれくらい寝て、そして今は何時なのだろう。ベランダのガラス戸からは陽射しが差し込み、リビングいっぱいに満ちている。
「先生、聞いてます?」
「ごめん、聞いてなかった。あと先生はやめて」
高獅子 ののめ(たかしし ののめ)は、日本の小説家。代表作に「空のコズミックイマジン」シリーズがある。
ウィキペディアはこの一文から始まる。
いわゆる職業作家である。新卒で数年間は会社員などしていたものの、ドロップアウトして久しい。執筆ジャンルはもっぱら、いわゆるライトノベル。ペンネームは本名のアナグラム、というほどでもなく、姓名を入れ替えただけのもの。作家としては若手と中堅の間くらいの位置付けで、人気のほどは、「高獅子ののめの小説が読めるのは、ザ・トレッキングだけ!」と掲載誌の表紙で煽られる程度。政治家でもあるまいに周囲からは先生と呼ばれ、慢性的な肩こりと腰痛を患いながら、虚構の世界を構築してはたまに壊したりしている。
各駅停車の電車に乗っても、東京へは一時間もせずに出られる。
遠い昔のように感じる会社員時代には、毎日こうやって電車に揺られていた。もっと昔、学生時代から通い慣れた秋葉原を横目で見送り、これといって鮮やかな思い出のない東京駅を通り過ぎる。品川で降り、人波に押し流されつつ構外に出ると、夕暮れから宵の口へと変わろうとする春の街は、早くもほろ酔いといった雰囲気だった。
会場のホテルまでは少し歩く。駅前のざわめきを抜け、交差点を渡り、急坂を上っている途中で散り際の桜の下を通る。一時停止していた時間が、わずかにスキップしてからおもむろに再生を始めている、といったところ。忘れていた季節が思い出したように次々訪れる感覚に、少し戸惑う。
その内に、一際明るいエントランスの建物が見えてくる。ちらほらと吸い込まれていく人の後に続いてみたところ、ホテルのロビーには「ザ・トレッキング懇親パーティー」という案内板が立っていた。
「東雲さん」
普段、ペンネームか、本名でも下の名前で呼ばれることが多い。親しみ易いキャラクターが理由では決してないだろう、下の名前の方が呼びやすいとかそういうレベルの話だ。とはいえ、慣れないだけで、苗字で呼ばれた場合でも確信を持って振り向くことができる。平凡な名前に比べ、少々というには珍しすぎる苗字――東雲崇(しののめ・たかし)――今もって同姓同名はもちろん、身内以外の同姓の人物とも会ったことがない。
振り返ってみたもののそこには誰もおらず、トン、軽く右肩を叩かれる。
「こっちです」
捻っていた身体を戻すと、そこには、やや小柄な女性が立っていた。
「――やあ、才川(さいかわ)くん」
「お久しぶりです。ここ三年くらい、連続出場じゃないですか?」
「ん、お互いね」
「私は最初から出てましたって」
穏やかに笑う彼女もまた、今夜の懇親パーティーの来賓だ。
淡いピンクのワンピースに、紺色のジャケット、後ろで一つに結った黒髪。ごく普通の会社員然とした佇まいからはおそらく想像できまい、彼女こそが「まほうびん」の名前で活躍するイラストレーターである。クリエイターがアバンギャルドな姿をしていなければならない決まりはない。才川はいつ会っても、婉曲な言い方をすれば周囲に溶け込む服装をしている。かく言う自分も、愛用の防水パーカーが綿のジャケットに、いつものリュックが小ぶりなボディバッグに変わったくらいでは、地味の範囲から一ミリも動かない。
「東雲さん、何日ぶりの外出ですか?」
「いやいや、意外と毎日のように外には出てる」
「コンビニとかでしょ?それ以外で、ですよ」
「……思い出せる範囲では……ないかも」
「ですよねえ、私もです。人との喋り方思い出せるかどうか心配だったんですけど、東雲さんと練習できてよかった」
「ん、俺も」
「東雲さんは、いつでもそんな感じじゃないですか」
「言うね、才川くん」
主には男性向けゲームのキャラクターデザインを手掛けている彼女だが、ウィキペディアの一行目にも載る代表作の挿絵は、連載当初からずっと才川ことまほうびんによるものだ。今夜の懇親会はその名の通り、小説誌「ザ・トレッキング」とコミック誌「マガジン・トレッキング」に関わる自分達のような作家陣、その関係者、出版関係者、企業関係者……などなどが集まる年に一度の催だった。
案内板の示す通り、エレベーターで二階へ上る。
チン、どこかアンティークな鐘が鳴り、扉が開くと、重たいざわめきに出迎えられる。開宴間近の二階ロビーには、まだあちこちに人が残っており、早くも会話に華を咲かせているようだった。
「ののめ先生、まほうびん先生」
入り口の陰から、ひょっこりと湧田が顔を出す。片手を上げ、ぺこりと会釈をして、小走りに近寄ってくると、独特の人当たりの良い笑顔を浮かべる。
「よかった、無事に着いて」
才川ではなく自分に向けられた言葉だろう。ただし、電車で一時間の首都圏から来た人間にかける言葉ではない。
「お二人とも、今日はわざわざありがとうございます」
この三人が同時に直接顔を合わせるのは、ちょうど前回の懇親会以来だった。
入口をくぐるとまず、受付と待合を兼ねた小さなカウンターのあるスペースがあり、その先、今は開いている両開きの扉の向こうに会場が見える。受付を通って会場に入るまでの短い間にテラスの方へ目をやったのはただなんとなくで、理由などなかった。
ガラスの向こうでは、数人が思い思いの姿勢で灰皿を囲んでいる。その中に一人、見知った編集者がいるような気がするものの、崇を見咎めたのは彼ではなかった。ぱっと顔を上げたのは、雑談の中心にいたらしい、頭一つほど背の高い男だ。目が合ったのかもしれないと思ったが、向こうは薄暗いし、こちらは近眼だし、なにより知らない男だし、と視線を進行方向に戻す。
カタン、と、すぐ後ろでガラス扉が押し開けられる音がした。
「ののめ先生」
呼ばれて振り向くまで、直前の恣意的な行動と繋がりのある現象だとは思わなかった。
立っていたのは、先程の知らない男だ。
彼が動き出すと、キラキラ、という効果音が流れるようだった。
うら若い、瑞々しい華やかさのある男だ。灰色のゆるいカーディガン、白いシャツ、たっぷりした黒のサルエルパンツ、シルエットこそルーズだがそれでも手足が長いのがわか る。細面、とまず表現するのがいいだろうか。肉付きの薄い頬、高い鼻筋、やや切れ上がった目尻と、一つ一つのパーツは冷たく整っているのに全体でひどく甘い雰囲気。歩に合わせて揺れる髪は、光沢のないまさに鈍色といった具合の銀色で、先のほうだけ鮮やかな化学の色――アイスグリーンに染め上げられており、絵具に浸した筆先のような風情だった。
崇の不躾な視線を受け止めたまま、彼は目の前まで来ると、わずかに背中を屈める。オレンジのようなお香のような、不思議な香りがふっと鼻をついて消える。手首に重ね付けしたブレスレットをシャララと鳴らして、彼はその両手でぎゅっと崇の手を握った。
第一声は――
「ののめ先生、会いたかったです」
「あ。どうも」
無邪気に瞳を輝かせて、にぱっ、笑う。やはり甘く、なんとも言えない愛嬌がある。
ファンなのか?
そうであってもおかしくないが、そうでないかもしれない。関係者の関係者くらいの関係になればもう無関係の関係なのだ、正体を知る由もない相手に向かって、まずかける言葉はなんだろう。
「その頭、かっこいいね」
とかいう種類のことでないことだけは、確か。
「どんなふうにですか?」
そして、それに対して、語尾に重ねるような素早さで問い返すのは一体どんな心境なのか。
「どんなふうに」
「はい、どんなふうに?」
「……絵筆みたいで、クールだね」
会話とは不自由なものだ。納得のいく表現を思いつく前に、こんなふうに眼差しに急かされて、口に出さなければならない。
「やった、褒められた」
彼は再びにぱっと笑うと、背伸びをしてその笑顔を崇の背後に送る。振り返ると、立ち止まっていたらしい湧田と才川が、呆れ半分といった顔で苦笑していた。
「俺、褒められた」
「はいはい。いいから、始まるよ」
湧田の親しげな口調に、急上昇したのは関係者の線。
「……あれ、知り合い?」
握られていない方の手で目の前の男を指差して気付く。そう言えば、ずっと握られてるな、手。
と思ったのが伝わったわけでもないだろう。伝わったのなら離れてもよさそうなものだが、それどころか、もう一度ぎゅっと握られたのだから。
「フジマルです。フジマル、ユキ」
言い含めるように聞かされたその名前を、崇は既に知っていた。
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